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05 21
2019

人生論

五十代からの人生のながめ

 私には年相応の年齢感覚がまったく育っておらず、自分が50年も生きてきたという実感がまるでない。自分がおじいちゃんといわれる年齢感覚なんて、これっぽちもない。

 結婚して子どもができて、子どもが成長してという体験を、自分でもまわりでもほぼ見聞きしていないので、ひたすら年齢感覚の欠如だけが際立っている。まわりの年齢によって、自分の年齢を知るという感覚が、孤独な人生を送ることによって、欠落している。

 いつの間にか五十代になってしまったという感覚だ。それも数字の上の感覚だけであって、それだけの年月を生きてきたという実感もとぼしい。自分が高齢者やおじいちゃんといわれる年齢層に属している自覚など、まるでない。

 ぎゃくに、自分をおじいちゃんと見なすことのほうが、人生楽になれる待遇を手に入れられるのではないかと思っている。おじいちゃんになれば、もう隠居的気分で、まわりの競争やポジションの確保につとめる必要もない。あの人、もうおじいちゃんだからという理由で、同じ土俵にのぼらなくてよい免除の資格を手にいられるのではないか。

 もともと私は会社で出世するとか、偉くなるとかの人生目標に反抗してきた生き方をしてきた。だけど、その職業的地位によって測れる人生評価にさいなまされることもあったわけで、五十代のおじいちゃんになれば、もうそういう葛藤も手放すことができる。もう終わった人だから、競争的価値で測られることもない。競争を下りてよい年代に達することができたのではないだろうか。

 おじいちゃんポジションは、若者たちがいっせいに走り出す競争的アリーナの会場から抜けていい場所なのではないだろうか。

 会社の出世的な地位や、金持ちや貧乏の評価、それから恋愛市場にさらされる男女の関係――そういったいっさいのアリーナから降りてよい年齢が、五十代ではないだろうか。ご隠居の気分で社会に対峙すると、競争的や上昇志向との距離に線を引くことができる。社会の一線からしりぞくだ。もともとしりぞいた人生しか生きてこなかったが。

 世間ではいま45歳以上のリストラが立て続けに発表されている。50代は出世やポストの競争が決定してしまい、大半の方は高給取りの会社の負担と感じる年齢と見なされるようだ。経済界はフラットな賃金体系をつくりたがっており、年功賃金の高い部分をカットしたいみたいだ。終身雇用の終わりなど宣言されるが、非正規がこんなに増えた時代になにを時代錯誤のことをいっているのかと思うが、一部の大企業関連にもまだそういった聖域が残っていたのかもしれない。

 もうどうでもよいという境地も、だいぶ増した。言葉や考え方によって、人生や価値を測るという見方も、だいぶ手放せるようになった。言葉や考え方自体が大切なものではない、もう放り出してよいものだという考えは、仏教や神秘思想で学んだものだ。言葉や考え方でなにひとつ測る必要も、ジャッジする試みも必要ない。人生の前半や多くの人はなにがしかによって人生を評価し、価値づける考え方に囚われているかもしれないが、もうそういう評価すべてを捨ててもよい境地にたゆたっていいと思っている。

 人は他人や社会からの評価を、自分の価値を測るすべてにしてしまい、そのような人生を生きるように社会からセットされる。社会からの評価がすべてであって、私の価値はそのモノサシだけにすべてを決められる。自分のやりたいこと、自分の楽しいこと、好きなことを基準に、自分の人生を評価すればいいのだ、他人のモノサシなんかどうでもよい。それ以上に人生に評価も価値づける必要もない。言葉や考え方によっていくらでも人を評価づけられるだろうが、そんなものもひとつの評価や考え方にすぎなく、また他人にとって都合のいい/悪いのモノサシでしかない。人生なんてあぶくのように消えてゆくものであって、あぶくに良いも悪いもない。

 五十代は年齢だけで組織を牛耳る人たちの年齢層に属せれる年代である。若いときはひたすら上の世代の決定や評価を恐れなければならない年齢だった。若い世代というのは、年上や目上の人の決定や評価にさらされつづけ、萎縮しなければならない年代だったのではないだろうか。そういった年齢によって萎縮しなければならない要素は、学生や若いころに自分の知らないところで重圧になっていたのだと思う。年代が上になってゆくことは、その畏れからも解放されてゆくことだ。自分はエスカレーター式でただ年齢を押し出されたにすぎないのだが。

 結婚の適齢期には子どもがかわいいという感覚はまったく育たず、そこから外れる年代になるにしたがって、子どもがかわいいという感覚がわかるようになったのは、思わぬ発見だった。女の子だけがかわいいと思うのは、やっぱり男の性分か。子どもが自分と違う存在や生き物だという感覚が芽生えた。若いころは自分はまだ子どもの成長から陸続きの感覚があったのだが、いつの間にかそれが途切れて、子どもはべつの小動物になった。やっぱりこれはおじいちゃんの感覚だ。

 恋愛市場にさらされている感覚、女性の目を気にするだとか、男としてのカッコ悪さをさらしたくないという感覚は、年代をへるごとに少なくなってゆき、三十代、四十代とへることによって、女性から評価される目も気にしなくなっていった。恋愛や性の対象や評価としての自分の目も、相手の目も、年をへるごとに失われ、また解放されたもののひとつだ。これは人によっては捉え方はだいぶ異なるのだろうが、私はだいぶこのアリーナから下りれたほうだろう。

 自分には五十代という年齢感覚はまったくないのだが、おじいちゃんというポジションには、下りた人というなかなか魅惑的なカテゴリーがあるようだ。いまの世間的には五十代はまだ出世の高いポジションにいるだとか、偉いさんがいちばん続出する年代であるかもしれないが、私の人生行路からして、隠居したおじいちゃんポジションに擬態することがいちばんメリットがありそうである。いろんな人生評価の競争アリーナから下りた場所を得られるのは、おじいちゃんポジションではないだろうか。

 競争や上昇をめざすことをまったくしなかった人生には、おじいちゃんポストは、やさしいソファを用意してくれているのでないだろうか。



隠居学 おもしろくてたまらないヒマつぶし (講談社文庫)人生を「半分」降りる―哲学的生き方のすすめ (ちくま文庫)悠々として、人生を降りる <下り坂>にはこんな愉しみ方がある会社人生、五十路の壁 サラリーマンの分岐点 (PHP新書)50代にしておきたい17のこと (だいわ文庫)



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