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05 04
2019

書評 社会学

学校に行かなければ勉強できない?――『脱学校の社会』 イヴァン・イリッチ

脱学校の社会 (現代社会科学叢書)
イヴァン・イリッチ
東京創元社



 まったくもってこの本を読んでみないことには学校がもたらすものについての重要な批判が欠落してしまうことになってしまう名著である。この本を読むことによって学校や学習の見方がまずまちがいなく変わる。再読である。

 人はよく大人になってなにかを勉強するために学校に入りなおしたいとかいったりするのだが、学習は自分でやったほうがよほど身につくし、自分の骨肉になる。だけど、人は学校にいかなければ勉強できない、知識は身につかないと思っている。それこそイリイチが指摘する学校化社会の結果であって、イリイチは自主独立のほうがもっとも学習になると説くのである。むしろ学校は学習を疎外すると。

 イリイチはこれは学校だけの問題ではなく、ほかの制度もおなじであって、専門家がサービスを制度化すればするほど、個人が自主独立でおこなう技能や知識が奪われてゆき、制度に頼り切ることになると批判する。それはつまり、完成品ができるまで待っている消費者に育て上げられることであり、この世を生産者と消費者に二分する生活方式を身につけさせる訓練になるというのである。

 学校は強力な思い込みをつくるのである。自分でつくりだす学習や知識はあやしげで頼りにならないもので、学校で教師から教わったものしか価値がなく、世間的に認められないものだという強固な信念をつくってしまう。これを「ハコモノ信仰」といってもよいと思うが、卒業証書のほうが重要であって、なにを自分の血肉にしてきたかの内実がいっこうに問われないことが世間に蔓延していることでわかるだろう。

 イリイチはこういったのだが、私には過去の勉強の疎遠感がたちまちに思い出された。

「偉大な古典でさえも、個人の人生に新たな転機を引き起こすものとならないで、「大学二年生」が使用するテキストの一部になるのである。学校は、それらに教育上の道具というレッテルをはることによって、事物を日常生活から取り去ってしまう」



 学校で習った知識は点数をとるための「記号」や「道具」になってしまい、日常生活や人生の糧、自分のこととは思われなくなってしまう。学校の知識は「他人事」であり、「自分の身の上」のことではない。学校でさんざん味わった感覚なのだが、お勉強というのは私の人生の身の上の出来事ではなく、どこか遠くで起っている記号や疎遠な出来事としか思われなくなってしまうのである。

 私は自分の生活や日常の疑問や謎から哲学や社会学を読むようになったのだが、ぜんぶ独学なのだが、そうするとそれは自分の困りごとや悩みごとの延長となり、自分の身の上にふりかかる問題として感じられた。これは学校で習った知識では、ひとつも感じられなかった感覚である。イリイチは私が感じてきた感覚をみごとに言語化していたのである。

 学校でさんざん勉強してきたのにひとつも身についてないな、なにも意見も洞察もおこなえないじゃないかという人は、教師に教えられることの立派な「消費者」となったのであり、完成品をもらうまで「無知な生徒」の役割をひきうけ、「みずから進んで学習しないお客さん」に染め上げられたのである。そうして知識にいちばん必要な自ら探り出す、考えるというアクティブな行動を抹殺されて、学習や知識は完成品ができるまで口を開けて待っているだけという立派な消費者、お客さんが完成するのである。知識や学習から立派に疎外されたお客さんの完成である。しかもそれが知識という思い込みは、TVのクイズ番組などでますます信憑性がつみ重ねられるのである。

 イリイチは自主独立でおこなう能力が奪われてゆくことをいちばん懸念したのであって、それが専門家による制度化によりますます増強され、その制度は生産者と無力な消費者に二分される生活行動の基礎学習になっていると警鐘するのである。お客さんとして生きることの強力な危機感をイリイチはもっていたのである。学校はそのひとつの顕著なモデルケースにほかならない。

 またイリイチは学校は、少年や若者という無権利で守られない「子ども」という区分をつくり、憲法や慣例上の制限をうけない権力を教師にゆずりわたすのだという批判をおこなっている。この人権侵害ぶりは教会や牧師のはんちゅうを超えて、はるかに心身のうえに暴力をふるう度合いは強くなり、いつまでも解決しないイジメ問題は、この学校の無制限な権力自体を模倣したもの以外に思えなくなる。この問題の深刻さは学校自体がかかえもつ権力の無際限さに端を発しているといえる。

「一たび独学ではだめだということになると、すべての専門家でない人の活動が大丈夫かと疑われるようになる。学校においてわれわれは、価値のある学習は学校に出席した結果得られるものであり、学習の価値は教えられる量が増えるにつれて増加し、その価値は成績や証明書によって測定され、文書化され得ると教えられる。
実際には学習は他人による操作が最も必要のない活動である。学習のほとんどは必ずしも教授された結果として生じるものではない。それはむしろ他人から妨げられずに多くの意味をもった状況に参加した結果得られるものである」



 医師でも講演者であっても、あやしいいかがしい人や活動がおこるたびに、免許や免状の必要性が叫ばれる。それは私たちの判断能力をだれか権威ある人に棚上げすることであり、ますます自分自身の判断能力を失うことである。そうやって、あやしいグレーゾーンがわきあがるごとに、自分の能力を制度にゆずりわたして、ますます自分の知識は無自覚に奪われてゆくのである。免許をもった専門家は、疎外された学習をへて、ほんとうに自分の血肉とした人に担われているのだろうか。

 イリイチのこの本を読むと、生徒として学校で学習してきたわれわれが、いかに知識や学習から疎外されてきたか、走馬灯のように垣間見える。世間の思い込みも、まさに学校化のカタマリである。学校にいかなければ勉強も知識も身につかないと思っており、どこの大学を出たかで信用や保証が測られる。その内容、内実を問われることはほぼない。この学歴社会は社会に出るとその知識や学問をほぼ問われることがなく、なんだと思っていたが、学習から疎外された人たちが学校から大量に生み出されていたわけだ。

 イリイチの自発性や自主独力の危機感というのは、モチベーション論のエドワード・デシの問題とも重なっており、またそれはエドワード・ピンクが指摘したような工業社会と創造社会の違いでもあるのだろう。工業社会は他人が見いだした答えや技能手順を記憶する、習熟することが重要だったのであり、創造社会においては自発性がより多く重要になる。われわれは自発性が切り開くことがもっとも重要になる社会状況の過渡期にいるのである。

 なおこの東京創元社の社会科学叢書は、フロムやハイエクの本も出ており、イリイチも合わせて社会の根本的なことに気づかせてくれる名著がめじろ押しである。この出版社の本はほかの出版社から出ることが少なく、各社から出て多くの人の目にふれることが世の中にはもっとためになると思うのだが。


ハマータウンの野郎ども (ちくま学芸文庫)サヨナラ、学校化社会 (ちくま文庫)再生産 〔教育・社会・文化〕 (ブルデュー・ライブラリー)冷血の教育学―だれが子供の魂を殺したか人を伸ばす力―内発と自律のすすめ

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