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04 01
2019

書評 心理学

心理学を学びたかった高校生は、その後三十年なにを知ろうとしてきたか

 高校生のときに心理学に興味をもち、大学では心理学を学びたいと思う人は多いと思う。

 べとりんさんの心理学志望に釘を刺す記事がおおいに話題になった。

 悩める高校生よ、「心理学部」を選ぶのはまだ早い

 大学の心理学で学ぶのは、みなさんがイメージするようなカウンセリングや心理療法ではなく、統計や実験をもちいた科学的な心理学であるということである。心理療法というのはあまりにも「非科学的」なので、統計や実験をもちいた「科学」に心理学はなろうとしていて、その「防備」の方法を学ぶことになる。

 「おまえのいっていることは真実なのか、ただの主観や決めつけではないか、正しいというなら証拠を見せろ、実験結果を見せろ」という証明や実証におおくの精力をそそいでいるため、心理療法のような非科学的なやり方は不都合なのである。だから、「非科学的な」心理療法を学べると思ったら、おおいに幻滅することになる。論争に打ち勝つためにさいしょから多くの結果をしめさなければならない科学的手法を学ぶ場なのである。


 ■心理学のなにを知りたいのか

 高校のときに心理学になにを知ろうとしていたのだろうか。多くはクラスでの人間関係や集団とのつきあいに悩んだり、苦しんだりして、どうやって生きてゆけばいいのかという身近な問題から発しているのではないだろうか。

 ときにはふつうや常識的なことができなくて、私は異常ではないか、どこかおかしいところがあるのではないかと思い悩んでいることもあるだろう。「発達障害」とか「アスペルガー症候群」とかいう症名は、自分もそうではないかという恐れをもよわせるし、そうだったらいままでまわりに合わせられなかった原因がわかったと安心したりするだろう。

 精神医学は、病んだ人を治す試みのはずである。しかし境界線にいる人、もしくは悩み多い人には、自分はその異常者ではないかという恐れをもよわせる断罪の振り分けになる。精神医学は、人を振り落とす恐怖の権力の面ももつ。自分は「異常者」として振り落とされ、社会にも適応できないのではないかという恐れを、心理学が生み出す側面もある。

 私も自分で対人不安的なことや神経症的なところがあって、高校のときくらいから心理学に興味があった。新書で宮城音弥の本を読んだり、フロイトの精神分析を読んだのは十代であったと思う。自分の異常視をひたすら恐れるところがあった。

 その後、私は大学で心理学を学ぶことはできなかったが、ひとりで人文書の本を読むことを三十年ほどつづけてきた。自分の疑問や関心あることをずっと考えつづけて、それに関連した本を読むというスタイルを、ずっと三十年はつづけてきた。

 そして自分のほんとうの知りたかったことは、心理学だけだったのかと思えるほうが多くなった。現代思想のほうが興味をひかれたし、社会学の本はびしばしと自分の心に突き刺さってきたし、ビジネス書もかじってきたし、自己啓発は役に立つと思ってきたし、文化人類学、民俗学、社会生物学、神秘思想や仏教と、興味あるものはジャンルと関係なく漁ってきた。

 むしろ自分の知りたいことは心理学みたいに自分の内面だけに向かうだけではなく、社会学や思想、経済学のような社会のほうに目を向けないとなにもつかめないのではないかと思うことが多かった。外側の条件や考え方が、自分の心を責めたり、追いつめたりしている。自分の心を解放したいと思ったら、心の内面をいじるだけではなく、社会のほうを見きわめないとまるでムリではないかと思うようになった。

 心理学は自分を責める方向ばかりに向かいがちだが、社会学や現代思想は「社会クソヤロー」という他責のほうにすすむ。

 心理学は「自罰」であって、社会学は「他罰」である。もし自分を責めるほうに進みがちな性格なら、他罰の社会学のほうに目を向けるべきである。

 心理学は「それはほんとうか」を考える。しかし社会学が心理学をあつかえば、「心理学はなぜそう考えるのか」を問う。ほかの学問が「真実とはなにか」と前のめりに対して、社会学は「なぜそう考えるのか」と皮肉でメタな視点ももちうる。世はセラピーが大流行りである、社会学は「なぜ大流行りなのか」の視点から問う。


 ■高校生のその後の三十年

 フロイトの精神分析や森田療法に興味があった高校生はその後三十年どんなことを知ろうとすることになったか。

 まずは大衆社会論にハマった。これは画一化、同一化してゆく大衆を批判する社会学や哲学の一ジャンルである。「みんながやっているから、おまえもやれ」「流行りや慣習だからおもえもやれ」という強制に腹を立てていた私は、まさにそのことを批判したこのジャンルにおおいに留飲を下げた。友だちや集団の同調圧力やみんなに合わせなければならないという圧力に抵抗を感じている人はぜひこのジャンルに当たってほしい。

 心理学に興味があるだけだと思っていたら、現代思想や社会学のほうがもっとおもしろい、自分が知りたかったことだと気づいた。現代思想は社会学や心理学もふくむ横断的・全体的な俯瞰をもつ統合的なジャンルである。難解でむずかしいと思われるかもしれないが、心理学に興味をもつ人なら、どこかに自分の知りたいことを探っていたかつての思想家を見つけることができるだろう。

 岸田秀は心理学者だが、社会のほうに目を向けた「共同幻想論」や「唯幻論」といったものも、読んでみるのは価値がある。社会の常識やルールといったものは幻想であり、ひとつの虚構であると言い切った人である。もしあなたが、社会の常識や決まりに追いつめられて苦しんでいたとしたら、どの心理療法より解毒剤になる。社会の決まりなんて恣意的な取り決めに過ぎない、と束縛を解いてくれる。

 岸田秀は強迫神経症に悩んだというから、そういう社会の取り決めから解放されることが、彼自身の解放になった。これは現代思想のポストモダン思想とほぼ同じである。ポストモダン思想を学ぶことは、社会の常識や決まりから解放をもたらすセラピーになるのである。

 ひところアダルト・チルドレンという言葉が流行ったが、自分を抑えてまわりに合わせてしまいがちな人を指す。そのような性格は毒親や虐待のような育て方に端を発するのではないかと、アリス・ミラーや加藤諦三のような交流分析派や自己実現セラピーが読まれたわけである。ただ加藤諦三は親の怒りを生き直さなければならないとか、過去の怒りに固着しがちであって、私は後におおいに疑問に思った。

 世はポジティブ・シンキングや認知療法といった考え方を変えれば気持ちも変わるといった現在志向のセラピーも増えた。これは精神分析のように過去を問題としない。いまの考え方を変えればいいという考え方である。うつ病の療法にも認知療法が効くといわれるようになって、過去にこだわりつづけた精神分析はなんの効力があったのだろう?


 ■自己啓発や神秘思想といった非科学的なものも

 ここまでもこれからも、私は厳密には科学的といわれるジャンルをほぼ読んでいないとはいえる。論証や論理で納得してもらうという学説である。一般的な学術書なら、このような本ばかり読もうが、だれにも文句をいわれることはない。心理学でひたすら実証主義的で、統計学的な研究しかできなかったら、このような知識をたくさん学べただろうか。

 私は自分の興味あることだけを羅針盤に本を読んできたから、自分にとって必要な知識をたぐりよせることができたと思っている。心理学で学びたいものというのものは、自分が生きてゆくうえで必要な役にたつ知識や技能ではないだろうか。学校の教えられるとおりのカリキュラムを待っているだけなら、自分の必要な知識がむこうから都合よくやってくるとは限らない。自分にとって必要な知識を、自分が必要なときにたぐり寄せる技能こそが、カリキュラムより大事だと思う。

 自己啓発なんて、科学からいちばん遠い低俗のジャンルと思われているのではないだろうか。「願ったことが叶う」「ポジティブなことを考えていれば、そのような結果がやってくる」といった自己啓発は、主観的な思い込みにしかすぎないと科学は一刀するだろう。

 しかし交流分析の「人生脚本」といった考えはじつに自己啓発の「人は思う通りの人間になる」と同じことであり、認知療法だって、自己啓発の「いいことを考えていればいいことがおこる」といった考えと近いものがある。ポジティブ心理学も学術的にとりこまれることがおおくなったのだが、もとは自己啓発が長らく語ってきたものだ。自己啓発が学術的なお墨付きを与えられるようになった、もしくは心理療法が主観的・精神主義なものにとりこまれているといったらいいか。

 私は自己啓発的なセラピーによって、思索主義的な傾向を一変させることになった。「思考を捨てる」や「思考は現実ではない」といった言葉を聞くことによって、いままでのセラピーや知識を捨てて、精神世界や仏教といったものも読めるようになった。トランスパーソナル心理学ともいう。要は言葉の信頼をいっさい捨てていいという知識に出会ったわけである。科学的な姿勢を学んできた者にはタブーなジャンルであるし、怪しい知識が山ほどあるのは承知だが、この一点を知ることによって、呪縛を解いてよいことがわかった。

 私たちは言葉がつくりだす世界を現実のものと思い、その世界から出ることはなく、言葉が思い浮べるものによって感情や情感がつくられる。その世界は虚構やひとつの幻想であって、現実にあるものではない。言葉や思いといったものは、外界にモノや物体として存在するものではない。その存在しないものにどうして私たちは感情するのか。言葉のない世界というのは、私たちがよって立つ言葉の世界の虚構性をあぶり出すものである。

 神秘思想や仏教といったものは、科学からすればずいぶん怪しくて、いかがわしくて、触れてはならない世界である。でもいちばん安らかで、心が穏やかになれる知識をあずけてくれたのはそのジャンルである。心理学に興味をもった高校生は、三十年かけて自分の知りたいものに到達した気がする。学校では科学だけを信じなさいと教えられ、宗教忌避の態度がつちかわれる。だが、神の存在信仰以外の考え方こそが、多くのセラピーをもたらし、役に立つものとは。

 仏教はまた脱俗や脱世間といって、世間の価値観やヒエラルキー順位から降りる方法を教えたりする。学校での序列、世間での序列を人は勝ち残らなければならないとたいていの子どもは叩きこまれるのだが、仏教はそのような価値観を脱落したり、相対化する知恵を教えてくれたりする。成功や競争、世間体といったものに疲れた人には、仏教は癒しを提供してくれる。

 マインドフルネスといった瞑想を科学的にヴァージョンアップしたものがいまは世に受け入れられつつある。言葉がつくりだす世界を捨てることによって、心の安かさが訪れる。知識や交流は言葉なしではおこなえないものである。感情や思いもそれによってつくられる。だが、その言葉は苦悩や悲嘆といった苦しい情感ももたらす。その言葉をもたない瞬間をもてば、人はどんなに安らかになれることか。





 心理学の進路に悩む高校生に届けばいいと書きはじめた記事だが、とんでもない結末に導いてしまった。たしかに三十年前に心理学を学びたかった高校生は、その後三十年こういう行路をへた。

 言葉や知識をたくさん貯めてものごとを知り思索をたくさんすることがよいと思っていた青年は、うつ傾向になり、ポジティブ心理学や自己啓発をへて、思考や言葉を捨てる神秘思想に出会った。たくさん貯めて、捨ててよいところにたどりついた。

 三十年前に心理学を学びたかった高校生は、自分の興味あることを羅針盤にして、山にのぼって、山をおりるところにきたということですね。まあ、これからも困難や問題に出会って、また手がかりをもとめて人文書全般に手を出すことは変わりはないと思いますが。

 自分の知りたいことは、自分の心にたえず問いかける。自分の知りたいことは、大学やほかのだれかが教えてくれるわけではない。自分でその疑問や謎をもちつづけて、考えたり、関連本を読んだりして、ようやくつかみとれるものである。自分の知りたいことを、都合よくタイミングよく他人が教えてくれるわけではない。自分の疑問は、自分で解いてあげるしかない自分だけのものである。そのときに知識や学問は自分のためのものになり、自分の悩みや問題を解決する杖や技術になり、人生や困難を助ける最大の味方としてほほえんでくれるだろう。


▼心理学を学びたいなら、教科書的な本より、名著ガイドから気に入った名著を読むことをおすすめします。教科書は映画のあらすじや概要をまとめたもの、名著は映画そのものを見ることに等しいです。予告やあらすじだけ読んで、映画見ない?
高校生のための心理学講座: こころの不思議を解き明かそう (心理学叢書)心理学に興味を持ったあなたへ 大学で学ぶ心理学 改訂版高校生のための心理学入門心理学の名著30 (ちくま新書)世界の心理学50の名著 エッセンスを読む


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プロフィール

うえしん

Author:うえしん
世の中を分析し、知る楽しみを追究しています。興味あるものは人文書全般。神秘思想、仏教、労働論、社会学、現代思想、経済学、心理学、歴史学。。 そのときの興味にしたがって考えています。

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