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03 22
2019

書評 哲学・現代思想

酷薄な強者の哲学――『善悪の彼岸』 ニーチェ

善悪の彼岸 (新潮文庫)
ニーチェ
新潮社



 小説しか読めなかった私がはじめて読んだ哲学書で、約三十年ぶりに読みかえした。哲学が読めて、こんなにおもしろいものかとその後、哲学書や社会学を読むようになった決定打になった本だ。

 短いアフォリズムだし、いっていることがところどころわからなくても読める本だ。ニーチェは批判的、反逆的な精神をもっている者にはとてもひきつけるものがある。現代思想・ポストモダン思想の源流ともいわれるし。

 ちかごろニーチェの哲学が自己啓発風に切りとられた本がベストセラーになったが、大衆を「畜群」と毒をもって罵ったニーチェのイメージをもっているものには、ポジティブ・シンキング風のニーチェには閉口した。その本はぱらぱらめくった程度で読んでないが、ほんとうにニーチェはこんなに前向きなことを語っていたのかと信じられなかった。

 この本は道徳批判なのだが、同情とか平等のような思いやりのある道徳が、天才や優秀な者たちの足かせになると、激しく批判した本である。読んだ当時は善きものと思われていた道徳感情をひっくりかえす本として衝撃をもって読んだのだが、いまはこれは強者をもっと強くしようとした保守思想の範疇に入るものに思えた。ニーチェを保守思想家という声はあまり聞こえないのだが。

「いまや、畜群的本能が一歩一歩とその帰結を示している。…公共に対して危険なものが多いか少ないか、平等を脅かすものがあるかないか――が、いまや道徳的規準である。ここでもまた恐怖が道徳の母である。

孤立した孤高の精神性・独り立たんとする意志・大いなる理性すらが、危険と感ぜられる。かくして、個人を畜群以上に引き上げ隣人に恐怖を与えるいっさいのものが、悪といわれ、反対に、控え目に卑しく服従しておのれを他とひとしく置く性情が、欲求の中庸が、道徳の名と誉れを僭するにいたる」



 ニーチェは道徳的な平等化が、天才や強者のような社会の進歩や未来をひっぱるような人種を滅ぼし、杭を打つことになるのだとはげしく批判した。J.S.ミルやオルテガが警鐘を鳴らしたこととまったく同じことをいっている。

 ニーチェは道徳批判をしたから、平等や画一化の危険を感じとった保守思想家とちょっと異なるようにとらえられているかもしれないが、私には保守思想家に思えた。道徳の中にこそ平等化や標準化の人間を低く抑えていゆく力があるといったのは、ニーチェの慧眼だろうが。

「これらの人間は、この貴族制のために、不完全な人間・奴隷・道具にまで圧迫され制限されなくてはならぬ。真の貴族制の根本信条は、社会は社会自身のためには存在すべからず、というにあるべきであり、社会の存在理由は、ただ選ばれた種族がより高き存在とまで向上するための土台であり足場である、ということにあらねばならぬ。

生命そのものが本質的に獲得であり、加害であり、他者弱者の圧服であり、酷薄であり、おのれの形式を他に強制することであり、同化であり、すくなくとも、またもっともおだやかにいって搾取である。

それは有機的な根本機能として、生ける物の本性に属する。それは、まさに生命の意志たる、力への意志そのものの生んだ結果である」



 ニーチェは民主的・平等が理想や善とされる社会への強烈な批判や非難を投げかけたのであり、こんにちの社会からはもはや危険とさえいえる思想を掲げた。奴隷道徳や同情によって画一化・平均化してゆく一般の人間をはげしく痛罵した。保守思想の強者や天才がもっと引き上げられ、伸ばしてゆく社会の先鋭化したかたちを望んだ。凡庸で平均的なものは、圧迫され、切り捨てられるような社会がほんとうによい社会なのだろうか。

 この奴隷道徳は『道徳の系譜』によってもっと細かくくわしく分析されている。

 もうひとつ『道徳の善悪』ではまだ萌芽的にしか語れていないが、『権力への意志』で全面的に語られる認識の虚構性や作為性も、ニーチェの重要な思想だ。

「「物それ自体」の中には因果の絆はまったくないし、「必然性」も「心理的不自由」もない、ここでは、「因が果を生む」こともなく、いかなる法則も支配していない。ただわれわれ人間が、原因・継起・相対・強制・数・法則・自由・根拠・目的などをつくりだしたのである。われわれはかかる記号世界を「物それ自体」として事物の中に嵌めこみ混ぜこんでいるのであるから、われわれの行っていることと同じく、ここでもまた神話的である。

空間・時間・形態・運動、これらをひきくるめてこの世界は虚妄として示されていると感じる者は、ついにいっさいの思考自体に対して疑惑することを学ぶべき、よき機会をもつわけである。

おそらくその逆が真なのではないか、「考える」が装飾するものであり「われ」が装飾されたものではないか。「われ」は「考えること」によって作られる総合体なのではないか」



 言語でつくられた世界自体、世界全体を疑うことはまだそう多くは語れていない。その後、『権力への意志』でおおいに語られることになるテーマはまだ初歩的なものだ。インドのヴェーダンダ哲学にもニーチェは触れているから、それに学ぶことは多かったのだろう。言語でつくられた世界の疑惑はその後にひきつがれてゆく。

 それにしても、ニーチェの強者だけがなぎ倒してゆく思想は、ニーチェの記憶はあったけれど、どんどん道徳的・平等的な考え方になっていた私にはどのくらい受け入れるべきか迷うところである。私自身がどんどん弱く、強く生きられないことを知っていったからなおさらだ。


道徳の系譜学 (光文社古典新訳文庫)ニーチェ全集〈12〉権力への意志 上 (ちくま学芸文庫)ニーチェ全集〈14〉偶像の黄昏 反キリスト者 (ちくま学芸文庫)この人を見よ (光文社古典新訳文庫)ツァラトゥストラかく語りき (河出文庫)


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うえしん

Author:うえしん
世の中を分析し、知る楽しみを追究しています。興味あるものは人文書全般。神秘思想、仏教、労働論、社会学、現代思想、経済学、心理学、歴史学。。 そのときの興味にしたがって考えています。

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