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03 13
2019

書評 社会学

世論や常識の自動人形――『自由からの逃走』 エーリッヒ・フロム

自由からの逃走 新版
自由からの逃走 新版
posted with amazlet at 19.03.12
エーリッヒ・フロム
東京創元社



 はじめて読んでからたぶん三十年ほどたって、読みかえした。当時は文学しか読めなくて、この本を読んだことによって学術書がこんなにおもしろいのかと思った。それから手あたりしだいに社会学や現代思想の名著といわれる本を読んでいった。この本に出会わなかったら、これまでのようにたくさん人文書を読むことはなかった本である。

 しかし今回、三十年ぶりに読みかえして驚くことに、フロムのいうことのどこに根拠があるのか、それはなぜいえるのか、ほかはいえないのかという疑念のほうが先に立って、すなおに受けとれなくなっていた。思考や考察を自由に柔軟に発想する方法に、懐疑的に私はなっていた。

 さいきんSNSの発達によって、専門家が一般人に頭オカシイと叩かれる例が増えた。フロイトの説をただいっただけの女性精神科医がボロクソに叩かれるし、フェミニスト系の社会学者がちゃんと訓練をうけた資格があるのかと、一般人に問われることが増えた。

 一般の人は学校の科学主義にまったくとりこまれているし、新聞しか読まないと「事実」しか語ってはならないと思い込んでいる。哲学書や精神分析のような思考や発想を頼りに自由に思索をくりひろげる学問に慣れておらず、それをただ妄想や自分に都合の良いつくり話だとしか思わないようだ。実証主義ではない思考の自由な発想はご法度な風土の人が、一般にはあまりにも多い。

 そういう批判を受けて、私のほうでもかれらの懐疑の目が育っていたというわけだ。竹内久美子という社会生物学に近しいジャンルを語る「エッセイスト」がいたが、事実に基づかず、自由な発想や洞察をするものは、「妄想」の垂れ流しといわれる。フロムの思想には、そういわれかねない危うさを感じた。

 でも人間や社会を語るには、実験室にそれだけを放り込んで、何度やっても同じ結果が出るような実験をおこなうことはできない。人間や社会にかんする大部分のことは、もう洞察や考察、経験を重ねて、それがいちばん事実に近いという論証をつみかさねてゆくしかない世界である。実験室で再現性をたしかめられることだけ語ってよいといわれるなら、もうなにも語れなくなる。一般人は、専門家に任せるしかないあまりにも危うい科学教の世界にいる。

 この本は、近代人の「孤独」と「無力」を主題に語られるわけだが、やはりいちばん染みるのは、世論や画一にしたがってゆき、自我を身売りしてしまった現代人への洞察である。王や貴族などの外的な権力からは解放されたが、世論やみんなといった内面の権力にますます絡みとられ、自動人形のように、自我を売り払ってしまっている。私たちはこの見えにくい内面化された権力のかたちに、自覚的であるのだろうか。

「しかしわれわれは世論とか「常識」など、匿名の権威というものの役割を見落としている。われわれは他人の期待に一致するように、深い注意を払っており、その期待にはずれることを非常に恐れているので、世論や常識の力はきわめて強力となるのである。いいかえれば、われわれは外にある力からますます自由になることに有頂天になり、内にある束縛や恐怖の事実に目をふさいでいる。しかもこの内的束縛や強制や恐怖は、自由がその伝統的な敵にたいして勝ちとった勝利の意味を、くつがえすものである」



 自分の常識や考えといったものが、社会や権力に乗っとられている。この自覚をもてる人はどれくらいいるのだろう。流行や常識、マスコミの意見といったものに、自分の意見や考えがすっかり乗っとられているのに、自分で考え、自分で思っているととらえている。まわりの人がはげしく、「みんなと同じでなければおかしい」、「みんなと違うことをいうあなたは異常だ」という強制力の中で、自分独自の発想や着眼が封じ込められようと、その圧倒的なまわりの力になぎ倒される。こういった世間や常識の力というものに、人はどれだけ疑問をもてているのだろうか。

「個人が自分自身であることをやめるのである。すなわち、かれは文化的な鋳型によってあたえられるパースナリティを、完全に受けいれる。そして他のすべてのひとびととまったく同じような、また他のひとびとがかれに期待するような状態になりきってしまう。「私」と外界その矛盾は消失し、それと同時に、孤独や無力を恐れる意識も消える。このメカニズムは、ある種の動物にみられる保護色と比較することができる。

個人的な自己をすてて自動人形となり、周囲の何百万というほかの自動人形と同一になった人間は、もはや孤独や不安を感ずる必要はない。しかし、かれの払う代価は高価である。すなわち自己の喪失である。

われわれの大部分は、自分の思うままに自由に考え、感じ、行為する個人であるとみなされている」



 フロムの危機感はこの自我が乗っとられたのに、自分自身で考え、独自に行為していると思う自動人形のような現代人の特徴のことをいっていたのである。私たちはどんどん社会や常識の鋳型にはめられ、鋳型のように考え、行動している。それなのに自分自身はまったく自分で考え、自分独自の気持ちをもっていると思っている。私たちは、世論や常識が押しつける、またはまわりの人が押しつける自分たちと同じにならないとおかしい、自分たちと違うことを考えるのは異常だという声に、毅然と立ち向かってゆくことができているだろうか。

「他方、子どもは早い時期に、まったく「自分のもの」でない感情をもつように教えられる。とくに他人を好むこと、無批判的に親しそうにすること、またはほほえむことを教えられる。教育がときに果たさなかったことは、普通あとになって社会的圧力によっておこなわれる。もしあなたが微笑していないならば、「感じのよいパースナリティ」をもっていないと判断される――しかも女給であれ、外交員であれ、医者であれ、自分のつとめを売ろうと望むならば、感じのよいパースナリティをもつ必要がある。ただ社会的ピラミッドの底辺にあって、自分の肉体労働しか売るもののない人間と、ピラミッドの頂上にいある人間だけが、とくに感じよくする必要がない」



 フロムはもっとも初期に抑圧される感情のひとつは敵意や嫌悪に関係するものであるといっている。そうやってみんなと同じ画一や均一化したパーソナリティをどんどん自分の中にとりこんでゆき、「いつわりの自己」ができあがる。この「いつわりの自己」はユングやケン・ウィルバーもいっていたものであり、モチベーション論のエドワード・デシもいっていたし、イリイチの教育論でもいわれていて、私は後から後からこの特徴をばらばらな方面から見いだすことになった。自発性がつぶされてゆく過程にいつも顔を出す「いつわりの自己」。

 ただこの画一に呑みこまれまいとする努力は、反権力や反同一化と結晶しても、ブランド消費や個性消費といった悲しい資本主義に呑みこまれるメカニズムもある。ブランド消費がカッコ悪くなったのは、この消費の戦略に呑みこまれているだけだという自覚にある。この過程はヒース&ポターの『反逆の神話』にくわしい。

 「いつわりの自己」をとりはずそうと試みたひとつの流れが、神秘思想家のグルジェフであって、この流れは「こちら側」「体制側」の人間にとっては、越えてはならない一線と思われることが多い。精神世界やスピリュチアルとくくられる「あちら側」である。グルジェフは、人間は条件づけられた機械となっており、それを断ち切るメソッドをつくろうとした。禅や仏教も、思考を断ち切るわけで、社会慣習をとりはずす試みのフロンティアであって、だからカウンターカルチャーとしてアメリカで流行した。認知療法のような思考の書き替えも、その内面化された仮面の自己を書き替える試みの範疇ということもできるのだが、認知療法に反体制の意図や試みは薄いと思われるが。

 私たちは自分自身であることをやめて、外部の世論や常識といったものに乗っとられた「いつわりの自己」をどんどんつちかってゆく。そしてそんな状態にあっても、自分自身がたしかにあると思い、露とは疑わない状態にある。「自由からの逃走」といった言葉は、私たちにはしっかりと伝わり、骨身に染みて恐れられている状態ではないのだ。まさか自分自身から逃走しているなどど、どこのだれの話かと思っている。現代の権力の見えにくさは、想像を絶するほど見えなく浸透しているものなのだ。

 マスコミとかニュースを見ている程度では、フロムの指摘したような自動人形の脅威といったものはなかなか自覚できないものである。本を読まなくなった文化は、フロムの危惧や警鐘もつたわらなくなってしまった時代でもある。


よりよく生きるということ反抗と自由希望の革命 改訂版破壊―人間性の解剖禅と精神分析 (現代社会科学叢書)


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うえしん

Author:うえしん
世の中を分析し、知る楽しみを追究しています。興味あるものは人文書全般。神秘思想、仏教、労働論、社会学、現代思想、経済学、心理学、歴史学。。 そのときの興味にしたがって考えています。

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