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03 06
2019

書評 社会学

異端者、天才の自由――『自由論』 J.S. ミル

自由論 (岩波文庫)
自由論
(岩波文庫)
posted with amazlet at 19.03.06
J.S. ミル
岩波書店






 オルテガの『大衆の反逆』とおなじくらい感激した書物を、はじめて読んでから二、三十年後に読みかえした。

 「みんながしているから、おまえもしなければならない」という圧力にたいへん憤りを感じていた二十代の私は、このジョン・スチュワート・ミルの1859年の著作におおいに感銘をうけた。1859年といえば、日本ではまだ幕末であるが、工業化や都市化が進んだイギリスでは、現代に起こっているような画一化や慣習の強制力は、こんにちとなんら変わっていないことを思わせるものだった。

 『自由論』といえば、王や貴族からの封建的な権力からの解放といった図柄を思いうかべるかもしれないが、この書は一般的市民が感じるような慣習や画一化の強制力からの解放を語っているのであって、現代を生きるわれわれにもびしびしと心に刺さってくるものが語られている。

 これは私はまったく「オタクの自由」を語っているように思えたのだが、趣味やとくしゅな興味にのめりこむ異才的な才能をもつ人や、天才が育つための多様的な生き方の自由が語れているのであって、凡人や平均な暮らしに満足できない生き方を望む者にはたいそうな背中を押してくれる書物になっている。いつの世もある異端者や少数者のための書である。

 とくに日本では就職であるとか、学校であるとか、結婚、出産であるとかの生き方の基準や型にかんして、画一化や同一化をのぞむまわりの声や世間の考え方というものは、圧倒的である。生き方の型、生き方のスタイルが、日本ではどうして多様や個別な生き方が頑強に排除されて、だれしもが同じ生き方、基準を生きなければならないとされるのだろうか。だれしも同じ生き方をしなければならないという世間の圧倒的な声に憤りを感じたときには、ぜひ思い出してほしい書物である。

 読み返してみて、ずいぶん古い訳で、文章がまずは左にいって、つぎに右に曲がるような錯綜したまわりくどい書物なので、ずいぶん意味を読みとりにくいものであることを思い出したが、新しい訳もほかの出版社から出ているので、岩波文庫の古い訳はあまりおすすめできない。

 第三章の「幸福の諸要素の一つとしての個性について」の章が圧倒的におもしろくて、びしびし心につき刺さってくるのだが、ほかの章はこの章の引き立て役や脇役にしか思えない。二章では、反対意見が真理に到達する議論のためにどんなに大切かを説かれる重要なことも語っているのだが、やはりこの書の生命は、第三章である。

「何事かをなすにあたって、慣習であるが故にこれをなすという人は、何らの選択も行わない。このような人は、最も善きものを識別することにかけても、またそれを欲求することにかけても、全く訓練を得ることができない。

自分の生活の計画を(自ら選ばず)、世間または自分の属する世間の一部に選んでもらう者は、猿のような模倣の能力以外にはいかなる能力をも必要としない」



 私たちはほかの人がそうしているからとか、みんながそうしているからと、たいして考えもせず、その生き方や型をだれかや自分に押しつけてしまう。はたして私たちはそれをする理由や正当性を考えたことがあるだろうか。形骸化した固まってしまった慣習や過去からの生き方を押しつけることは、われわれの思考力や懐疑心をちっとも働かせることはないのである。猿とよばれても仕方がない。

「天才は、自由の雰囲気の中においてのみ、自由に呼吸することができる。天才ある人々は、天才であるが故に、他のいかなる人々よりも更に個性的である。――したがって、社会がその成員たちのために、各自独自の性格を形成するの労を省いてやろうとして提供する少数の鋳型に、天才ある人々が自分を適合させようとすれば、ほかの人々以上に、有害な抑圧をこうむらずにはいないのである。

もし彼らが強い性格の人物であって、その羈絆を打ち破るという場合には、彼らは、彼らを平凡化しえなかった社会の注意人物となり、「狂暴」とか「奇矯」とか、その他のいろいろな厳重な警告をもって指摘されるのである」



 慣習や画一化は、天才や才能が育ってゆく環境を殺してゆくことになるのである。この危機ゆえに、生き方の多様性や自由は、慣習や画一の型にあてはめられないことが、たいへんに重要になってくる。型にはめる社会は、天才を殺す社会である。天才は変人や狂人と紙一重といわれるが、このような人たちを抑圧することは、天才が育ってくる環境までも殺してしまうことになる。

 日本ではほんとうにまわりと違わないこと、まわりと同じことをすること、ほかと違うことを恥ずかしいと思う圧力というのは、強力で強大である。このような社会で、天才やのちの世を開いてゆくような特殊な人物はどうやって生まれ出るというのだろうか。社会がみずからの進歩や発展を殺しにかかってきているようなものである。はたして日本は先進国のキャッチアップ以外、なにものも生み出せない国としていま没落しようとしている。

「普通一般の人々は知性において平凡であるだけではなく、性向においても平凡である。彼らは、何事か異常な行為に傾いてゆくほど強い嗜好や欲求をもっていない。したがって彼らは、かような嗜好や欲求をもっている人々を理解しないし、かような人々のすべてを、彼らの平素軽蔑している粗野で放埓な人々と同類と見なしてしまうのである」



 辛辣な批判である。ふつうの人が異常な興味をもつことは、性的なものしかない。だから天才がもつような異常な興味は、かれらには性欲や性的なものしか想像できない。性的な異常視を、天才の異常な興味に重ねて、批判や異常視するのが、ふつうの人のサガである。少数者や異端者といった人たちはたえずこういう非難や攻撃にさらされるのではないだろうか。お里が知れるというやつだ。

 ミルは画一化が成功した国は中国であるといって、そのゆえに停滞した国の運命を嘆く。だが、当時の時代にあっても、フランスやイギリスにおいてどこまでも画一化や同じ型の強制がすすんでいるといって、ヨーロッパの行く末に憂慮をしめしている。社会の進歩や文明の発展には、型にはまらない多様な生き方がゆるされる土壌が必要なのである。

 はたして日本はどうだろうか。天才や才能がたっぷりと育ってゆくような多様で自由な成育環境は守られているだろうか。学校で、地域で、職場で、私たちは自分の自由や多様性を認められているといえるだろうか。社会はいつも異常や病気といったカテゴリーを用いたり、あの人は犯罪者の型や似ているといって、類型や画一にふさわしくない人を非難して、排除してきたのではないのか。ひと昔前にいたような個性あふれる、地域で迷惑と思われる人たちは、いまの町中で自由に徘徊しているだろうか。自由で多様な土壌はますます窒息していっているのではないだろうか。

 ミルの『自由論』はいつの世にも文明の発展や進歩を測るバロメーターになるのではないかと思う。


自由論【新装版】自由論の系譜―政治哲学における自由の観念孤独な群衆 上 (始まりの本)ニーチェ全集〈11〉善悪の彼岸 道徳の系譜 (ちくま学芸文庫)天才を生んだ孤独な少年期 ―― ダ・ヴィンチからジョブズまで


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Author:うえしん
世の中を分析し、知る楽しみを追究しています。興味あるものは人文書全般。神秘思想、仏教、労働論、社会学、現代思想、経済学、心理学、歴史学。。 そのときの興味にしたがって考えています。

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