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恋愛映画の名作と呼ばれるものをどれくらい、見たことがあるだろうか。
私はSF映画好きで、恋愛映画はすこし軽んじているところがあって、かなりのところ欠落がある。映画は娯楽だから好きなものだけを見たらいいものだし、名作や古典とよばれるものを見ないでもなにも困ることはない。古い映画ならなおさら魅力を感じず、見たこともない。
このような恋愛映画のガイド本を手にとることになったのは、ストーリーになっているミュージック・ビデオをいま漁っているからである。映画のストーリーを背景に感動的な音楽が流れていたら、その魅力は何倍にもなり、くりかえし見聞きしたい。自分の記憶では足りないので、こういうガイド本から探そうということになった。
そういう映画のストーリーMVは、予告よりもっとその映画を見たくなるという逆流をもたらした。岩井俊二の『Love letter』は名前は知っていたが、そのエピソードのMVがあまりにも魅力的だったので、思わず映画を見た。『ラ・マン 愛人』はデュラスの原作を読んだかもしれないが、MVで内容を見て、じっさいに見たくなった。まだ見ぬ感動的な映画があるかもしれないと、ストーリーになっているMVを漁っているしだいだ。予告より、よほど魅惑的な効果を知った。
学問の名著読みという方法は、かなり有意義である。教科書を読むより、名著読みしたほうがその学問の実質を知ることができる。名著をある程度読んでいたらその学問を語っていいという感じになるし、教科書ではまったく届かない深みを知れる。
文学は、私は名作読みで進めた。名作といわれる基準があれば、羅針盤はかなりかんたんである。ただ経験知も熟年知もないうえで、世界文学に当たるのは、かなり無謀とはいえて、理解がおよばない累積になってしまう実感は残ったが。
映画のばあいはそういう名作鑑賞という方法はあまり使わないのではないだろうか。娯楽は好き嫌いだけを羅針盤にしたらいいもので、堅苦しくて古い魅力のない名作なんてむりに見る必要もない。私はこの方法できたが、名作といわれるものの欠落がかなりあるようだし、映画情報があまり入ってこないこともあって、自分の情報欠落に唖然となる。
名作鑑賞が義務や教養となれば、娯楽としてのやわらかさは終わりになってしまい、もうそれは学問とおなじように強制が嫌いな子どもたちの娯楽としては見向きもされない廃墟と化してゆく。強制と自発のバランスは繊細すぎて、娯楽のジャンルも強制や義務になれば、もう死んでしまう。学問や読書が死んでしまったのは、教育の強制によるものだと私は思うが、名作や古典に上げることは、そのジャンルの死ももたらすので注意が必要だ。教えることは、そのジャンルの自発性の死と同じ意味だ。
映画というのは、音楽の流行とおなじようにかなり世代性と不可分である。ある世代はむかしの映画をまるで知らないし、年をとった世代は古い映画しかおぼえておらず、新しい映画をまるで知らないかもしれない。映画評論家の褒めたたえる映画がある時代を機に止まっていたり、あたらしい映画はすべて感動しないとかいってしまうかもしれない。映画ガイドは、ある程度はその世代性を薄めたり、交流させる役割をもつのではないだろうか。
ふつうの人は最新映画しか情報が入ってこないという見方をしているかもしれない。名作や古典とよばれるものを遡ろうとする人はどのくらいいるのだろうか。読書は数百年前の古典とよばれるものが、いまだにひきつがれて読まれるジャンルである。映画では数十年、生まれる前まで遡られるなんて、まずはないのではないだろうか。技術の違いが、むかしの映画をまったく魅力のないものに見せたりね。映画は時代の技術や世代にかなり限定されるメディアかもしれない。
映画の名作ガイドというのは、時代を遡ることである。前の世代が見てきた映画の評価を聞くことである。最新映画しか情報が入ってこないと、なかなか遡る機会を得ない。名作というのは、時代を遡ることであり、その中の普遍性を探す、もしくは触れることなのかもしれない。むかしの人の心情や琴線を見いだすことかもしれない。
最新映画というヨコ線だけでは、時代性や時間というタテ線には触れることができない。時代性の厚みをもつためには、このような名作ガイドが助けになるのだろう。文学や学問の読書には、この時代性のタテ線が十分に発達している。
▼自転車で紙袋をかぶせるシーンがいいですね。MVから思わず映画を見たくなった『Love Letter』
▼ただのエロ映画と見るか、植民地差別の映画と見るか。『ラ・マン 愛人』



