FC2ブログ

HOME   >>  書評 哲学・現代思想  >>  「私」とは他者のことか――『私はどうして私なのか』 大庭 健
01 16
2019

書評 哲学・現代思想

「私」とは他者のことか――『私はどうして私なのか』 大庭 健



 私は、「私とは誰なのか」という疑問はあまり抱かなかった。この疑問というのは、「私」の感覚に違和感や息苦しさを感じるようなところから生まれるのだろうか。

 だけど物語の記憶喪失には、深い興味をおぼえてきた。だだぼんやりとした疑問だ。それを言葉にした文を読むことによって、「私とは誰なのか」と問われていることを知る。「記憶がなくなれば、私は私でなくなるのか」、記憶喪失物語はそう問うている。記憶喪失物語はよく恋愛ものに頻出するから、「愛とは記憶、思い出なのか」、と問われることが多いのだが。

 ちょっとこのフックでは、疑問の継続はすこしむずかしいのだが、自分が自分自身であることの違和感や齟齬を強く感じることによる問いや疑問というのは、知識にとって欠かさざる原動力となるものだ。その違和感を強く持つ人は、自然に哲学者になる。

 この本は「私」意識とはどのように生まれていったのかということから解明されてゆくから、ひじょうに興味深い。岩波現代文庫で出ているが、もとは講談社現代新書から出ていたもので、そう考えるなら、やさしい一般向けに書かれた親切な本であることがわかるだろう。謎解きのようにスリリングな展開を読める。

 自分の意識というのは、他人に見られていることを意識するようになって生まれるものだ、という指摘にははっとさせられる。ぼーっとしていて、はっと「われに返る」のは、他人がどう見ているかと意識してからだ。ポール・リクールには『他者のような自己自身』という著作があるが、まだ未読なのだが、自己意識とはほんとうは他者意識の反射ではないだろうかと思う。自己というのは、すでに他者、あるいは想定された他者意識なのではないのか。

 三浦雅士の『漱石――母に愛されなかった子』にも同様の、自己は他者や母の目によって生まれたという指摘がある。私たちの自己というのは、他者の目を想定した意識なのか。

 そういう他者に見られていることに気づいて、自己意識は生まれてゆくが、まだそれだけでは「私」という言葉は使えない。たとえば「健ちゃんは」という言葉から、「私は」という言葉を使うには、飛躍が必要だ。健ちゃんという言葉はそうでない者にはつかえないが、私という言葉はほかのだれもが口にできる言葉だ。そういう自己意識が他人にもあること、この世界に自分のような自己意識は自分だけではなく、ほかにもあることに気づいて、はじめて「私」という言葉は使える。自分も世界の中のいくつもの「私」のひとつにすぎない、そういう意識をもてて、はじめて「私」という言葉は使えるようになるのである。

 「私」という言葉は、見られていることの意識と、世界のほかにも自己意識があることを知って、はじめて使えるようになる言葉なのである。

 そしてそういう自己意識の発達には、「ないものを表せる」言葉の発達と不可欠である。だから、この本では言語哲学や分析哲学の言語的解釈がずっと使われる。

 私はこの「ないものを表せる言語」ということにずっととどまりたい気持ちにさせられるのだが、この「ないこと」の感覚の維持ほど、言語にまみれた私たちには必要な感覚はないと思っている。過去や未来は「ない」のに、言葉によって目の前にあるかのように扱われる。それが当たり前になるのが私たちの社会だ。ここでひっかかってほしい。「ないこと」の感覚を磨いてほしい。私たちは、「ないこと」の上に言語の幻を組み立てつづけるのである。

 過去はもうなくなっているし、この瞬間もつぎつぎと消え去ってゆく。それなのに、過去は思い出せばあると思われるし、さっきの私はもうなくなったのに、継続した「私」はあると思っている。この存在がつぎつぎと消滅してゆく世界に私たちは住んでいるのだ、この感覚をずっと維持しないと、この世界のマヤカシを生きることになってしまう。神秘思想や禅は、このことをいっているのだが、一般社会ではこの消滅することにはいっさい目をふさぐ。そこで、私たちは誤った目標や望みを抱いてしまうことになるのである。

 また、「ないこと」の重要性に気づいたなら、哲学も読めるようになるという逆説もある。言語を駆使した哲学はぎゃくにそれをまったくいわないのだけどね。底が抜けた奈落性を、この世界はふくんでいる。そういうのを教えてくれるのが哲学がオカルトめいて遠ざける神秘思想だというのは、皮肉なことである。

 で、この本が私とは誰かと問うた必要性は、ただ生きていることに価値がおかれず、取り柄に価値がおかれる転倒について疑問を発したかったからだという結論めいたことがいわれている。生命や身体を自分の所有物のように思い込む過ちの根源をたどりだしたのだということなのだそう。三浦雅士が、人が自殺できるのは、自己意識が他者の目によって生まれたといったことと同じだ。


漱石―母に愛されなかった子 (岩波新書)私という迷宮所有という神話―市場経済の倫理学他者のような自己自身 (叢書・ウニベルシタス 530)自我の終焉―絶対自由への道


関連記事
Comment
Trackback
title>
Trackback URL
Comment form









管理者にだけ表示を許可する






プロフィール

うえしん

Author:うえしん
世の中を分析し、知る楽しみを追究しています。興味あるものは人文書全般。神秘思想、仏教、労働論、社会学、現代思想、経済学、心理学、歴史学。。 そのときの興味にしたがって考えています。

Kindle本、2冊発売中です。

google adsense
全ての記事を表示する
ブックガイド特集
月別アーカイヴ
FC2カウンター

Page Top