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10 25
2018

幻想現実論再読

早すぎた神秘主義者――『嘔吐』 J‐P・サルトル

嘔吐
嘔吐
posted with amazlet at 18.10.25
J‐P・サルトル
人文書院

嘔吐 新訳
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J‐P・サルトル
人文書院


 マロニエの根の話はあちこちで聞くから、ずっと前から読みたかった書物であるが、中島義道の絶賛を聞いてますます読みたくなって、これまで容易に見つけることのできなかった古本祭りで見つけて、ようやく読むことができた。たぶん、むかし読んでも理解できなかったと思う。

「本当に『嘔吐』は何度読んでも泣きたくなるほどすばらしい作品です。「現在だけしか存在しない」こと、過去は「自分の思想(<こころ>)の中にさえも存在しない」こと、この驚くべき発見を日常的な場面でえぐるように描写することにかけて、サルトルの右に出る者はいない。」  中島義道『哲学の教科書』



 サルトルは実存主義だから、ネットの読書レビューを読むと、みなさん実存主義的な読み方をしようとしているが、前半から半ばにかけて、この本は過去や時間のことばかり語っているのである、執拗なまでに。そして主人公のロカンタンは、歴史学者である。

「私は自分の現在をもって、追憶を作りあげる。現在から逃れようとして現在の中に投げもどされ、現在の中に棄てられる。過去に合体しようとして私は失敗する。私は現在から逃れることができない」



「彼らはすべてを保存した。過去とは所有者の贅沢である。
 どこに私の過去を蔵っておこうか。過去はポケットの中にいれられない。過去を整頓しておくためには一軒の家を持つことが必要である。私は自分のからだしか持たない。まったく孤独で自分のからだだけより他になはなにひとつ持たない男に、思い出をとどめておくことはできない。思い出はこの男を斜めに通り抜ける。私は不平をいうべきではなかっただろう。なぜなら自由であることだけを私は欲したのだから」



「幸いにも彼らは子どもを作ったので、子どもたちに自分の経験をその場で消費させるのだ。彼らの過去は失われてはいず、思い出は凝結して、ふっくらと<英知>に変わっていると、私たちに信じこませたがっている」



 これは見事に過去を語った時間論であり、執拗に過去のあり方にこだわる。まるで「時間と存在」論かのようである。そして嘔吐感のナゾを解き明かす展開にみちびかれる。時間論の結論はつぎのようなものだろう。

「そして現在でないものはすべて存在しなかった。過去は存在しなかった。少しも存在しなかった。事物の中にも私の思想の中にさえもそれは存在しなかった。しかしいままで、過去は私の手の届かないところに引込んだだけだと信じていたのである。私にとって過去は退職したものにすぎなかった。それは存在の別の仕方であり、休暇の状態、活動停止の状態であった。……だがいま、私は知った。事物はまったくそれがそうらしく見えるもの、それだけのものであり、――そしてその<背後>には……なにもないことを。」



 人は過去は、どこかに実在しているかのごとくに思い出し、だれかと話し、過去の後悔ややり直しを考えたりする。しかし、ロカンタンは、過去がまったく存在しない底なし沼の無であることを、悟ったのだろう。言葉で構築していた安定した世界が、ひび割れてしまう。そして、事物そのものの世界に、ロカンタンはとつぜん向き合ってしまうのである。これが有名なマロニエの根での体験である。

「ことばは消え失せ、ことばとともに事物の意味もその使用法も、また事物の上に人間が記した弱い符合もみな消え去った」



 これは神秘思想や仏教がめざした言葉が解体した世界に、とつぜん放り出されたということなのだろう。神秘思想や仏教では、言葉を解体させることが目標である。しかしサルトルが描くところのロカンタンは、意図せずにそのむきだしの世界に出会い、嘔吐を感じる。

「事物の多様性、その個性は単なる仮象、単なる漆にすぎなかった。その漆が溶けた。そして怪物染みた軟い無秩序の塊が――怖ろしい淫靡な裸形の塊だけが残った」



 このマロニエの根の体験は、まるで神秘体験、事物そのものに出会った体験の記述に思えたのだが、わたしにはこの体験の最中に語られる思想が、まるでわからなかった。なんとなく言語と知覚の世界の混合に思えたのだが、私は禅の見性体験とかを聞いていると、どうも悟りというのは言語世界の崩壊だけであって、知覚は何ひとつ変わらないのではないかと思うようになった。神秘主義者は知覚世界が融合するかのような体験を語るのだけど、たんに言語世界のマヤカシや幻にもう騙されないということではないのか。

 知覚世界の融合や崩壊を語るのは、禅でいう魔境や、病理的で幻想的な体験にしかすぎないのではないのか。メスカリンとかLSDでの神秘体験が語られていたりするのだが、禅者やほかの覚者は、たんにふつうに生活する者になるにすぎない。あくまでも言語や心象の世界にもう巻き込まれたり、騙されたりしないということではないのか。

 そういう意味ではサルトルは早すぎた神秘主義者であって、早すぎたラム・ダスやオルダス・ハックスリーであったのかもしれない。

 サルトルは実存主義者であり、みんなそういう風に読むのだが、私にはこの本は神秘思想や仏教の本に思えた。実存主義の語る言葉は、私には実感がこもらなくてさっぱりつかめないのだが、言語や過去が無であることを悟ろうとする神秘思想や仏教の文脈なら、この本を理解することができる。

 ただ西洋哲学者は、東洋哲学のように言葉に不信をもったり、言葉を捨てようとはしない。言葉がなくなる世界は不快で、嘔吐すべき状況である。神秘主義であることを、拒否したいのである。言葉で構築される世界を、手放そうとはしない。

 意図せず神秘思想書や仏教書に達してしまったが、サルトルは東洋的な神秘主義がめざしたものには向かわなかったのだろう。西洋哲学者は、言葉で構築される世界にアイデンティティを賭ける。

 神秘主義者であった井筒俊彦もいっている。仏教者もこれは仏教書だと声をあげなかったのだろうか。

「もともと言語脱落とか本質脱落とかいうこと自体が、深層意識的事態なのであって、それだからこそ「存在」が無分節のままに顕現するのだ。しかしサルトルあるいは『嘔吐』の主人公は、深層意識の次元に身を据えてはいない。そこから、その立場から、存在世界の実相を観るということは彼にはできない。それだけの準備ができていないのである。だから絶対無分節の「存在」の前に突然立たされて、彼は狼狽する。」 井筒俊彦『意識と本質』





存在と無〈1〉現象学的存在論の試み (ちくま学芸文庫)知覚の扉 (平凡社ライブラリー)覚醒への糧 心の探求の道しるべ意識と本質―精神的東洋を索めて (岩波文庫)哲学の教科書 (講談社学術文庫)


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プロフィール

うえしん

Author:うえしん
世の中を分析し、知る楽しみを追究しています。興味あるものは人文書全般。神秘思想、仏教、労働論、社会学、現代思想、経済学、心理学、歴史学。。 そのときの興味にしたがって考えています。

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