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10 12
2018

幻想現実論再読

過去とはなにか――『大森荘蔵セレクション 』



 大森荘蔵は、「過去の制作」や「過去の想起」、「時は流れず」といった時間論に興味あったのだが、大半は認識論や心身論といったもので、難解で頭に入ってこず、ほとんどつかめたとはいいがたい。

 自著の電子書籍化に手こずって、読書がおろそかになったこともあるけど、そうでなくても、むずかしいのだろうな。文章の流れはいいし、論理文脈はたどりやすいほうだと思うが、なにか頭に入ってこない話になりやすいんだな。哲学の認識論の主流的なことを語っていると思うのだけど、私にはこのジャンルはニガテ。

 わたしは自分の時間論は自分なりに固まっており、拙著『思考を捨てる安らかさ』にも書いたのだが、自分の論を検証するために読んだようなところがあったが、ぎゃくに跳ね返されたな。

 大森壮蔵は、過去は制作されるものであり、過去の想起には、日付や消印のようなものがついておらず、どうやって何年前とかその心象から気づけるのかといっているし、「時は流れる」という観念自体が、人類の大きな錯誤だと確信を得るにいたったとか、いっている。

 つまり、わたしたちが空間的に捉えるような過去や時間はない、ということだ。なにかわたしたちが捉える時間というのは、いくつもの壁を重ねて、それが順送りに継続しているように思われているが、過去というのは、知覚と異なった新たな虚想のようなものだと。

 わたしは、過去はその瞬間に消滅し、過去はもうフィクションや想像の次元になるものだと思っている。存在しなくなったという意味では、過去はもうこの地球上のどこにも存在しなくなるのだから、「絵空事」の次元になってしまう。

 わたしたちは過去の実在を強く信じているのだが、それはどのように存在しているのだろうか。現実にはなく、心象や記憶としか実在しないのなら、それはもうフィクションと想像の次元と変わりない。このあり方は、映画や小説のあり方と似ていて、フィクションはまったく実在しないものなのに、まるで実在しているかのように泣き笑いできる。われわれの認識とは、たいがいはフィクションの次元に零落するもので、構成されている。

 過去がこんな陽炎で、幻のような存在であることに気づければ、わたしたちを悩ます過去の後悔や悲しみ、恐れといったものも、手放すのが容易になる。それが、わたしの追究したい時間論なのである。

 大森荘蔵はこれと似たようなことを語っていて、検証するために本書を手にとったのだが、大半はむずかしい哲学論理のベールにへだてられて、届かなかった。


時は流れず時間と自我天地有情の哲学―大森荘蔵と森有正 (ちくま学芸文庫)生き生きした過去: 大森荘蔵の時間論、その批判的解読思考を捨てる安らかさ

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