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06 08
2018

幻想現実論再読

無我と盲従――『「京都学派」の哲学』 吉田 傑俊

4272439022「京都学派」の哲学
―西田・三木・戸坂を中心に
(近代日本思想論)

吉田 傑俊
大月書店 2011-06-01

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 著者の言葉使いがむづかしかったからか、京都学派の思想がむづかしいのか、かなり理解をこえることが多々あり、入門書にもう一度当たり直さなければならないと思わせる本だった。

 禅や仏教には、無我や主体の消滅をめざす教えがあり、それが滅私奉公や戦争加担へとみちびかれた歴史がある。現代人の宗教嫌悪には、権力への隷従や盲目的服従の怒りがある。西田幾多郎や京都学派は、そのような試金石として、どのような流れがあったのか、くわしく知りたいと思っていた。

 トランスパーソナル心理学の岡野守也は『自我と無我』という本を書き、その問題を考えていた。その問題がじっさいにおこったのが、西田幾多郎や京都学派の周辺だと思うのだ。

 この本で伝えられた西田幾多郎の思想はむずかしすぎて、要領をえなかった。ただ禅が、社会的、経済的な政策にかかわることはまったく畑違いに思える。獄死した三木清や戸坂潤は社会経済の専門家だったので、とうぜんに時の権力と衝突するのは自然なことだ。禅が、軍部関係者とかかわることは、あまりにもアクロバットだ。

 京都学派には、戦時中に獄死したものもいるし、「世界史の哲学」派のように戦争イデオロギーに協力的だったものたちもいる。一枚岩ではなかったのだろう。第二次世界大戦には、「西洋対東洋」という図式があり、禅は東洋を代表するものであり、軍はそのイデオロギーにかつぎだしたかったのだろうか。

 禅や仏教は、無我をおしえる。主体や抵抗をもたない盲目的服従だけをもたらす思想になってしまうのか。言語を捨てることは、なんの抵抗も主体も持ちえない盲目の民になってしまうのか。言語構築は主体の問題でもある。わたしはセラピーの要素だけで神秘思想や禅を援用しているのだが、この服従と抵抗の問題に答えを見いだしているとはいいがたい。この問題はひきつづき考えていきたい。


京都学派 (講談社現代新書)物語「京都学派」 - 知識人たちの友情と葛藤 (中公文庫)「日本」への問いをめぐる闘争―京都学派と原理日本社 (パルマケイア叢書)自我と無我―「個と集団」の成熟した関係 (PHP新書)西田幾多郎 無私の思想と日本人 (新潮新書)

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