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05 13
2018

幻想現実論再読

どこまでいっても言葉――『夢中問答』 西村 恵信

414084082X夢中問答―禅門修行の要領 (NHKライブラリー)
西村 恵信
日本放送出版協会 1998-04

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 現代的な言葉で神秘思想を読みたいのだが、そう見つからなくて、言葉の否定を強くいった禅に帰ってくるしかない。

 この本は、夢窓国師と足利直義の問答を、花園大学教授の西村恵信がNHKラジオテキスト用に解説したものである。

 要点を二点だけ抜き出す。

「ゆえに「有念なれば魔網に堕つ、無念ならば即ち出づることを得」とあるからといって、「無心」を心の無いことと考えることは間違いであるし、そのようなことは人間にできることではない。無理に何も思ぬようにしようとすると、いわゆる「断見の外道」に堕ちてしまうのであり、そういう見当違いの座禅を、古人は「死人禅」とか「枯木寒厳の禅」といって徹底的に批判しているのである。
したがってここで有心とか無心とかいわれている場合の「有」とか「無」は、有無相対の「二元分別心」が有るか無いかということである。有無の分別にこだわればたちまち「有心」であり、有無にこだわらなければ「無心」ということになる」



 むりやりに無心になることを禅はいましめているわけだが、ここの分別はむづかしいね。むりに思考を断ち切らなければ、思考の噴出の習慣は強力なものがあり、初期のころは必要とされるかもしれない。だが、それらが虚像やイリュージョンとわかるような段階になれば、もはやむりやり押し切る必要もない。段階の問題に思える。

「…世界中のすべてのものは実在している、と思うのは迷える凡夫の妄想であり、世界中のすべてを無常なものと見るのもまた小乗的な妄想であります。すべての存在を永遠不滅としたり、あるいは断滅してしまうものだとするようなのは外道の妄想です。そうかといって、すべては幻の如く実体のないものと考えたり、また有るとか無いとかいうことの両方を離れた非有非空の中道だ、とさとるのも菩薩の妄想というものであります。真の仏法は教の外にあるということを教える禅宗のことを知らず、教えだけを最後のものとして頼るのは教宗の人の妄想。「教外別伝」とばかり唱えて、それが、教宗より勝れたものだと自負するのは禅者の妄想であります。
私がそのようにいうことを信じ込み、あらゆる教説がすべて妄想だと信じてしまうのも、また妄想にほかなりません。昔、唐の国の無業国師は、一生涯を通じて、修行者が何と問うてきても、ただ「妄想するなかれ」の一句でこたえるばかりでした」



 禅は、どこまでいっても言葉にとりこまれてしまうことの危険性を、どこまでも警戒した。なにを説明しても言葉だ。言葉が分けて、分別してしまって、またその言葉の対象を実在させてしまって、言葉の実在の膜の中に収まってしまう。言葉はどこまでいっても、わたしたちをとりこんでしまうのである。

 この本の節に、「「ことば」を実在と思い込む」という表題があるのだが、禅はなぜか言葉の問題であることを、強調しなかった。現代人ならこの方面から入れば理解が増すと思うのだが、言葉を透過して、事物の正否に頭をつっこむのは、あまりにも言語圏の枠内すぎる。わたしたちはあまりにも言語の住人すぎるのである。


夢中問答集 (講談社学術文庫)夢中問答入門禅のこころを読む (角川ソフィア文庫)夢窓夢窓疎石―日本庭園を極めた禅僧 (NHKブックス)仏教を歩く No15 夢窓疎石と「五山文化」 (週刊朝日百科)


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