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01 12
2018

幻想現実論再読

仏教のカンチガイの山――『誤解された仏教』 秋月 龍珉

4061597787誤解された仏教
(講談社学術文庫)

秋月 龍珉
講談社 2006-09-08

by G-Tools


 いい本である。仏教書を読んでいたら、あるいはまったく読まなかったら、仏教は入り乱れてほんとうにいったことが区別できなくなる。そのような区別をはっきりつけようとしたのが、本書である。

 仏教書を読まない人だったら、死後の霊を祭る葬式仏教しか思いうかばないだろうが、この書では仏教は、無霊魂説だとはっきり否定する。インドでは信じられていた輪廻説も否定する。

 仏教は無神論と著者はいうのだから、はたして仏教は宗教なのかとわたしはいいたいところだが、著者はそういうことはいわない。

 わたしはインド・ヒンドゥーのブラフマンや梵我一如説、絶対的実在者との合一を説く神秘思想とおなじではないかと思っていたのだが、著者はそれも違うという。ブラフマンのような「大我」になるのではなく、仏教が説くのはあくまでも「無我」であるから、違うといっている。わたしにはブラフマンは実在しない名づけられないものといっているのだから、無境界であり、無我と変わりはないと思えるのだが。

 著者は「覚りの宗教」と「救いの宗教」に分けているのだが、この区別のなさこそ、宗教を混乱させる大きなものと思う。「覚りの宗教」は禅のように言語フィクションをゼロにしてゆく教えであって、「救いの宗教」は言語フィクションに開き直って、その実在を言語上に委ねてしまう教えであると思う。

 そもそも宗教の核である神秘思想は、言語の否定をおもに出発点としている。でも宗教になるとまったくひっくり返って、言語で創作された世界を実在のものと思い込むのである。禅を信奉する立場からすれば許せないといいそうなのだが、著者はそういった浄土宗や親鸞の教えには寛容である。わたしはそれをやったら、言語フィクションの地獄に落ちるだけだと思うのだけどね。

 言語というのは、それ自体が創造・創出してゆくものである。そして、人はたちまちその実在を信じてしまう。「ないもの」を、あたかも「ある」かのように思い込む作用が、言語である。覚者というのは、この言語の性質をはっきり否定したはずである。でもそういった説明はあまりにも伝達がむずかしく、言語上でのセラピーとなるフィクションの世界観をひろめたというしかない。

 言語のない癒しではなく、言語のうえでの癒しである。この分岐点はあまりにも大きい、罪深いとさえ思えるのだが、現代人ならこの宗教崇拝の奥に隠された言語否定の思想くらい、理解は難しくないと思えるのだが。



徹底討議 無心と神の国―宗教における「自然」親鸞とパウロ―徹底討議絶対無と場所白隠禅師: 仏を求めて仏に迷い (河出文庫)仏教、本当の教え - インド、中国、日本の理解と誤解 (中公新書)

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