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12 17
2017

幻想現実論再読

氷上の滑走路――『「実在」の形而上学』 斎藤 慶典

4000258273「実在」の形而上学
斎藤 慶典
岩波書店 2011-12-23

by G-Tools


 実在とはどういうものかということを問いたかったから、手にとったが、まったく意味も有益さもつかまえられない読書に終わった。

 語られるのは、ハイデガーやレヴィナス、パトチカ、西田幾多郎といった西洋思想家であり、奇怪な現象学的用語を駆使して煙にまかれる。ゆいいつ、わかりやすかったのは最終章の「時」についてだけ。

 現象学はまったくスケートリンクをすべっている気持ちになる。文章の滑りはいいのだが、つるつる滑るだけで、意味や内実に手が届かない。もうカンベンしてくれという感じになる。

 現象学的用語でイタイ目に会った人にはこの本も要注意です。竹田青嗣を読みましょう。

 わたしが実在について問いたいのは、小学生でもわかるような「実在すること・実在しないこと」のあいだをもっと明瞭化することである。

 たとえば、わたしたちは言葉でしゃべった対象をぼんやりと実在するものと素朴に見なしている。それが実在しているのか、と問われることはまずない。ことばって、実在するのか? ことばとはどのように実在するのか。

 わたしたちが目の前にいない人のことをしゃべっているとき、その人はどのように実在しているのか、わたしたちが話すことの実在とはほんとうにあるのか。ほかにニュースや事件を知ったり、話すとき、その事件はどのように実在しているのだろうか。わたしたちがニュースを話すとき、それは実在の対象そのものに届いているのか。わたしたちが言葉で思い描いているものは、たんに頭の中で想像した像にしかすぎないのではないのか。

 たとえば、わたしたちは過去をしょっちゅう思い出しては、後悔や悔恨や羞恥にまみれる日々を送っているのだが、いちどでもそれが実在しているのかと疑問に思ったことはあるだろうか。わたしたちが思い出しているのは過去の像であって、もう現実にはどこにも存在しなくなってしまったものである。なぜ、存在しなくなったものに、はげしく感情を揺さぶられるのか。それはもはやどこにも存在しなくなった心象や像にしかすぎないものではないのか。

 そういってしまえば、わたしたちの心も、思考も、頭で考え、思うこと、感情といったものも、実在が疑わしいことに見えてくる。心や心象といったものは、どのように実在しているのか。心象の対象というのは、頭の外に存在しているのか、頭の中だけとしたら、その像は実在しているといえるのか。

 わたしたちがあたりまえに「ある」と思っている心の思いや思考というのは、じつにその実在が危ういものである。そのはかなさやあやうさを思うときに、わたしたちがふだん抱く思いや気持ちといったものの「実在性」は、霧や煙のように消えてゆくかのようだ。

 喜びや楽しみも消えていってしまうかもしれないが、苦悩や悲嘆といった苦しみも、それによって消えてゆくのだ。これを究極のセラピーや癒しとよんでいいのではないだろうか。

 実在の明瞭化でめざしたいのは、このようなことである。

 著者がいう形而上学や現象学には、このような考えにヒントを与えてくれる考察はなかった。



時間の非実在性 (講談社学術文庫)改訂版 なぜ意識は実在しないのか (岩波現代文庫)なぜ世界は存在しないのか (講談社選書メチエ)意識は実在しない 心・知覚・自由 (講談社選書メチエ)実在とは何か? (別冊日経サイエンス 186)


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