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11 25
2017

幻想現実論再読

フィクションと実在

 仏教は、言葉というのは無であるということを説いた。人は言葉による想像を実在するものと勘違いするのだが、それは無であると人間の認識の過ちについて説いた。

 たとえば、宇宙を思うとき、わたしたちは実物の宇宙にふれているのか、たんに頭のなかで想像を描いているにすぎないのか。宇宙は映像や画像によってあたかも現実の宇宙にふれているように思えるのだが、宇宙空間に出られないわたしたちには頭のなかの想像にしかすぎない。

 たとえば、ニュースで事件や事故を知る。わたしたちはその出来事を直接目にふれて見たり、じっさいの出来事にふられているのだろうか。伝聞や人づてに聞く出来事というのは、頭の中で想像した出来事らしきもの、模造や虚構でしかないものではないのか。わたしたちが頭で捉えた出来事というのは、ほんとうの実在する出来事そのものなのか。

 わたしたちは過去や終わったことをしきりに思い出すのだが、過去というのは奈落の底に呑みこまれるように、この地球上に永遠に去ってしまった、もう実在しないものである。だけど、わたしたちは過去をひんぱんに思い出しては、まるで目の前にあるかのごとく、悲しんだり、怒ったりできる。永久に存在しなくなったものに、わたしたちはなにを悲しんだり、怒ったりしているのか。それはもう、実在しない想像を現実にあるものと思う作用と同じではないのか。

 人は実在のものと、想像したものの区別ができずに、しだいに言葉だけで捉えたものを実在そのもの、出来事そのものととり違えるようになる。言葉は想像力にすぎないのに、出来事そのものの実在と思い込むようになる。やがて言葉の対象は即、実在するものと思い込むようになる。

 仏教であれ、神秘思想であれ、人の言葉や想像力の過ちを無だと説いた教えである。想像力は実在しないと説いた教えのはずである。だから、ブッダは神秘的で目に見えないものに対して、言葉で答えずに沈黙を守った。言葉で答えたり、議論すると、その言葉はたちまち実在の過ちに祭り上げられてしまう。

 こんにちの科学的世界観は、物質のみに構成された物理的世界観だけを信じる立場のことである。それゆえに、神やあの世や霊魂といった宗教観は、そんなフィクションなどは信じられるかと斥けられる。

 あれ? しかし仏教こそが、言葉によるフィクションを否定した立場ではなかったのか。仏教はなぜあの世や神、霊魂といったフィクションを信仰する立場になっているのか?

 仏教はたしかのその後の歴史において、神やあの世を説いてきた。言葉のフィクションを戒める立場から、積極的に言葉のフィクションを活用する立場にうつり変わってしまったのだろうか。あの世や極楽といったフィクションは、想像力の無をよういに理解しない民衆に対して、安楽をもたらすための方便として活用する立場の仏教勢を生み出したのか。

 神やあの世は、物理的には存在しないフィクションであるというのは、こんにちの科学的教育をうけた世代にはごくあたりまえの直感でもわかることである。しかし、世界中の大半の人は宗教や神を信奉して、このフィクションを実在のものと思い込む世界観に生きている。言葉を実在のものと思い込む世界観にどっぷりつかったままである。

 しかし科学信奉者であるわれわれだって、言葉で描いた想像を実在のものと勘違いする過ちは、完全に払しょくできているとはいいがたいのではないか。

 過去を思い出しては、後悔や悲しみや怒りにもだえるのがわたしたちの日常であろうし、国家や民族をフィクションや虚構だと思わない層もたくさんいることだし、言葉は実在しないフィクションであると自覚している人もそう多くいず、言葉で捉えたものを即、実在と思ってしまう人もたくさんいるのではないのか。実在の過ちにかんたんにおちいっているのが、わたしたち人類ではないのか。

 神やあの世といったものは、とりわけわれわれにはフィクションの誤謬だとわかりやすい。想像にすぎないものをよく信奉できるものだと、われわれは思う。

 たとえば、あの世は物理的に実在している世界を見たことがないので、よういにそれが想像されたフィクションにすぎないとわかるし、どうしてそんなフィクションにすぎないものを現実の世界にあると思えるのかと、疑問に思うことができる。霊魂や魂の存在だって、死を恐れる人間が、慰めのために死後の存続を願ったためのフィクションであると、勘繰ることができる。

 世界観や宗教観がちがうと、よういにほかの人たちのフィクションを実在化してしまう過ちを見ることができる。信奉するものは、即、実在に導いてしまうわれわれの認識のあり方が、よく浮き出ている例といえる。

 しかし翻ってみて、われわれもまったく実在化の過ちを犯していないといえるだろうか。神秘思想や仏教の説く究極の立場は、目も耳もない、生も死もない、不滅の実在がわれわれなのだと説く。

 言葉や過去未来、物質も存在しないという立場は、われわれの言葉の実在化の立場をも超えているのではないのか。わたしたちは、物質や物体の存在を絶対的に信じる立場である。物体はあたりまえにあると見える。

 だけど、それは想像による実体化ではないのかと、神秘家や宗教家はいう。たとえば、死はまだ来ていないのだから、自身が死んでしまって無になるのは、現在における想像にしかすぎない。想像を実在のものと勘違いする立場は、宗教を奉じる立場の人たちと同じ間違いではないのか。想像はほんとうに「ある」ものなのか?

 仏教というのは、言葉や想像力による実在化の作用をどこまでも落としてゆく立場である。言葉で組み立てるものを、いっさい信じないし、信奉しない立場のことである。言葉をいっさいなくす立場である。

 言葉や想像力をそぎ落してゆけば、わたしたちは死を知ることもないし、生まれたことも覚えていないし、明日のことも、きのうのことも実在しないということになる。いま、目の前にあること以外はいっさい実在しないということになる。そして、いまここだってさえ、一瞬に過去になるので、もう実在しないということになる。わたしたちは言葉を失えば、一瞬で過ぎ去ってゆく無という存在というほかないのではないのか。

 仏教は、言葉の実在化をいっさい落として、子どものまだ言葉のない世界に戻ってゆくことであるし、動物のように未来のない世界に生きることを推奨する立場に思える。そこでは、言葉でねつ造や偽造された悲しみや苦しみがない。といっても、それは言葉のない無知の推奨ではなくて、言葉による実在が過ちや誤謬だと知った上での帰郷であるが。わたしたちは言葉の実在化というあまりにも大きな誤謬を抱えているのである。

 言葉をなくしていって、虚構の思考も浮かばない、言葉による対立も差別もない世界に浸かりきったときに、神秘家や宗教家はこの世界との一体感をとりもどし、至福の境地に憩うという。言葉のない世界は、一体感の世界であるという。その状態を神と呼んできたのであって、キリスト教のような人格神は、古い東洋哲学や神秘思想では説いていないはずである。

 言葉によるフィクションの実在化というのは、われわれにとってまだまだ拭いがたい過ちのようである。ところどころフィクションの過ちを知り、ところどころフィクションの過ちに陥るパッチワークのような状態の段階にいるのが、われわれではないだろうか。

 宗教の世界観を笑うわれわれだって、日常の世界にたくさんのフィクションの実在化をおこなっている。宗教家は、その実在化の過ちを笑う。わたしたちは、宗教家のフィクションの実在化を笑う。おたがい、ずいぶんフィクションの実在化にまみれているということである。


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