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11 22
2017

幻想現実論再読

ことばは仮想現実である

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▲河面にうつった空と雲


 仮想現実というのは、じっさいに体験しているように思えても現実にはないものを意味するので、これはわれわれの意識やことばにひじょうにあてはまるので、モデルや比喩としてとらえてみるのが有効な手段だと思う。

 ことばも、仮想現実である。じっさいにあると思っていたり、現実に体験しているかのように思えるが、現実には存在しない、ないものである。ことばというのは、視覚に見えるものでもないし、頭の中にあるだけであって、じっさいに存在するものではない。

 わたしたちは、ことばはあるあると思って毎日を暮らしているのだが、ことばをちょっと省みてみると、その実在の怪しさにはかんたんに思い至ることができるだろう。

 仮想現実がモデルとして優れているのは、それが現実には存在しない「無」であるということである。われわれは、この「無」、「実在しない」という方向に思考を巡らせないから、大いなる錯誤におちいる。

 仮想現実は、無なのである。まったくどこにも存在しない虚無である。しかし、われわれは機械や装置の力を借りて、それがあたかも現実に体験しているかのように感じることができる。

 ことばもそうなのである。ことばも頭で描いたものは、現実に目の前にあるかのように思うことができる。しかし、それは現実には存在しない無なのである。わたしたちは、この無の方向に思いをいたさないばかりに、壮大な過ちにおちいる。

 こういう方向に頭をめぐらせると、日常意識だって、仮想現実であり、その基盤は無であるということができる。

 わたしたちは、ことばで現実を捉えて、あれこれ思案をめぐらせる。しかし、それが現実に存在しない無だとしたら、われわれはいったいなにを見ているのだろう? まさしく、「夢を見ている」という状態でしかないではないか。

 わたしたちの頭の中の大半は、過去を思い出したり、過去を反芻することで成り立っている。しかし、過去というのはもう存在しなくなったもの、この地球上のどこにもなくなったもの、跡形もなく深淵に呑みこまれたものではないのか。

 では、過去を思い出すとは、どういう状況なのか。たんにもう存在しなくなった心象や記憶を、「いまにおいて」思い出しているだけのことではないだろうか。つまり、まったく存在しなくなった「無」を、あたかも現実にあるかのごとくに思っている仮想現実とまったく変わりはないではないか。

 しかも、その過去は言葉という価値づけや意味づけの装置をほどこされて、われわれに情感的な景色として感情をゆり動かされる。過去は、まったくなくなってしまった。でも感情は立ち上がる。われわれはいったい、存在しない何に感情をゆり動かされるのか。それは存在しなくなった過去の心象や記憶という、もう「ないもの」ではないのか。

 われわれは、存在しないことばや心象によって、感情をゆり動かされているのである。じっさいにあるあると思っているものは、まったく存在しないもの、無である。その無の方向に頭をめぐらさないばかりに、わたしたちは存在しない心象や言葉に、感情をゆさぶらされる。

 このありかたというのは、映画やマンガを鑑賞する態度とひじょうに似通っているのである。わたしたちがフィクションという絵空事に泣いたり、笑ったりできるのは、それが過去を体験するありかたと、まったく同じだからである。つまり、もう存在しなくなったものを、あたかも目の前にあるかのごとくに思える能力があるからこそ、フィクションを体験できる。

 わたしたちは絵空事を感情することができるのである。まったく存在しない無であるフィクションを。そして、その認識のありかたは、まったく過去の体験と同じなのである。

 わたしたちは、存在しない無を、あたかも現実に目の前にあるかのごとくに体験できるのである。この体験は、仮想現実という装置そのものと同じ構造である。

 わたしたちの感情や苦悩は、この存在しない仮想空間のスキマから生まれてくる。もしこのスキマがなければ、わたしたちは苦悩することはなくなるし、悩みや悲しみも実在するものに基づいているわけではないということにならないだろうか。

 わたしたちは、目の前にあること以外のことを膨大なことばや映像という仮想現実でおぎなっている。その仮想現実を現実にあるかのように思うことが習い性になり、それがじっさいにあるように思えてしまう。そして、そのスキマから苦悩や悲哀が生まれる。

 しかし、このような理解を得たところで、人は苦悩から解放されない。思考というのは、自分の意志とかかわりなく、勝手にわきあがり、その思考や心象に乗ってしまうと、「われを忘れて」、それが現実に目の前にあるかのごとく感情をもよおすことができるからである。

 ことばや思考は、ひとたびその脈絡に乗りこむと、目の前に現実にあるかのように思えてしまう「実在化の作用」をもっている。そのために、それが目の前に存在しない無であることを忘れて、すっかり思考の現実化に人は呑みこまれる。

 わたしたちはこの思考の呑みこまれによって、いつもわれを忘れてしまうので、それが仮想現実や、じっさいにはない無であるということを忘れてしまう。こうして、われわれの日常は、夢を見ているのに夢を見ていることを忘れる状態に置き去りにされる。

 現代はことばや思考に価値がおかれる状態である。思考をめぐらせ、あちこちの角度から検討し、反省し、分析することをよしとする社会である。そうして、過去も未来もなんども考えては、その存在しない絵空事の現実化に打ちのめされて、われわれは苦悩の波間に溺れることになる。

 とりわけ、過去の反芻は、人に苦悩や羞恥、悔恨の地獄におちいらせる大きな要因だと思う。デール・カーネギーは「鉄の扉で過去を閉ざせ」といったのだが、それほどの過去の苦悩はさえぎりがたく、われわれの目の前を苦悩のカーテンに覆うのだが、それが実在しない無であると理解できれば、われわれの苦悩はかなりのところ軽減できるのではないだろうか。

 鉄の扉で遮る必要などない。そんなものは、もともと存在しない絵空事だったのだから。仮想現実のモデルは、われわれのこのような認識のあり方を、よく見せてくれるのではないだろうか。

 思考の噴出というのは、機械や習慣のようなものである。それをよきもの、賢明なものと思っているかぎり、思考はつぎつぎに噴出する。また、思考こそがわたしであり、考えるゆえにわれありといった考えをもっていると、思考の切れはしを片時も手放さなくなるだろう。そうして、苦悩の囚人になるのである。そこには、もはや仮想現実の無であるという発想はおよびもしない。

 ことばは仮想現実であるといういい方は、ほかに心にもあてはめることができるだろう。心というのはあるあると思っているが、沈黙しているとき、熱中しているときには、その存在を忘れている。それは思考しているときにはありありとあらわれ、なにかほかのことに捕らわれているとき、存在しなくなっている。心はところどころに無の様相を見せるのである。

 ことばや思考というのは、確実にあるように見えて、じつは存在しない仮想現実であるという面をもつ。わたしたちは実在のほうばかりに目が行ってしまい、それが実在しない無であるというほうには目を向けなくなってしまう。映画やドラマを鑑賞しているときと同じ状態のおちいるのである。それがどこにも存在しない絵空事であることを忘れてしまう。まさにわれわれの認識自体がこのような性質をもっているからである。

 わたしたちは無のなにもない虚無から、言葉や思考によって現実を生み出す。そしてその仮想現実が目の前にあるかのごとくに感情する毎日に翻弄される。わたしたちは存在しない仮想現実を生きる無である、と捉えることが、その仮想現実のカベを打ち壊す捉え方になるのではないだろうか。

 わたしたちは、無から仮象や仮構を生み出す存在である。そして、その基盤にはなにもない無がひろがっている。この無、ことばや思考という仮象がない世界にこそ、わたしたちの実在の秘密や本態はあるのではないだろうか。


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プロフィール

うえしん

Author:うえしん
世の中を分析し、知る楽しみを追究しています。興味あるものは人文書全般。神秘思想、仏教、労働論、社会学、現代思想、経済学、心理学、歴史学。。 そのときの興味にしたがって考えています。

初のKindleセルフ本、発売中。他人に感情を振り回されてばかりいる人、過去を後悔してばかりいる人、必読。長年の習慣から解放される心理セラピー。



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