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11 03
2017

幻想現実論再読

原典にふれることの大切さ――『世界の名著 2  大乗仏典』  中公バックス版

4124006128世界の名著 2  大乗仏典 (中公バックス)
長尾 雅人
中央公論新社 1978-05

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 仏教は人によってはイメージがいろいろ違うだろうが、たいがいは原典を読まずにできたものではないだろうか。原典を読むと、難解でその高度な知識に面喰うだろうし、たぶんまったく知らない人にはなにいっているかわからないと思う。

 われわれは科学と宗教の対立で、宗教は古くさく誤った迷信や土俗であり、顧みる必要もないものと思われている。そういう印象も加わって、現代人がはじめて仏教原典にふれると、まったく理解は届かないものとなるだろう。

 現代人が仏教にはじめて触れるポイントとしては、言語や思考の否定である。こんにちでは言語は絶対的な正義となっているが、そこに悪や弊害、害悪を見られるようになると、仏教の必要性がわかる。さらに言語や心象の実在というワナや過ちに気づくと、仏教がなんら誤謬にみちた迷信を語っているわけではないことがようやくわかる。科学というのは、言語の疑惑や嫌疑をまったく抱えていないのである。

 大乗仏典の主要な成立は、だいたいは紀元前一~紀元後三世紀のあいだのインドでおこっている。『般若経』、『法華経』、『華厳経』、『維摩経』、『宝積経』はこの時代に成立している。もうこの時代に頂点に達しているのである。この中公バックスでは、『金剛般若経』、『維摩経』、『宝積経』が収録されている。

 のちの仏教は論証や論理学になり、他学派や宗派との論争になり、とりわけこの論理がむずかしい。中国で、言語を否定しつづけた禅が興隆した理由を見るかのようだ。

 この中公バックス版では、じゅうらいの漢文訳をいっさい排除して、サンスクリット語訳、チベット訳の現代語訳に徹している。漢文を並列した仏教書は、なにをいっているさっぱり読めない。ムダである。漢文のお経なんか聞かされるわれわれは、さらに無意味である。読めない言語を聞かされて、バカにされているのかさえ思える。

 『維摩経』はいささか神格化されたエピソードが現代的にはそぐわないのだが、空性の説明はもう完成の域に達しているのではないだろうか。

「すべての存在は生じては滅してとどまることがなく、幻のような、雲のような、雷光のようなものです。あらゆる存在は、(他を)待ちもせず、一刹那すらも停止することはありません。あらゆる存在は夢や幻影のようであり、真実が見えているものではありません。あらゆる存在は水に映った月や、(鏡に映った)像のようであり、心の(妄想)分別によって生じたものです」



 『宝積経』はもう空性の頂点に達しているように思われ、空性の観念に固執することも戒められる。

「もしある人々が空性という観念をつくり、その空性に帰依するならば、カーシヤパよ、わたくしは彼らをこの教えにそむき、破壊する者であるとよぼう。実に、カーシヤパよ、慢心のある者が空性という観念(空見)によって(自分の思想)を飾りたてているよりは、スメール山ほどにも大きな個我の観念(我見)によっているほうが、まだましである」



 空性というのも、観念から離れさせるための「方便」である。また空性という「観念」にしがみつくのなら、空性の教えはなんの役にも立たない。

「心は形をもたないもの、見られないもの、認知されないもの、基底のないもの、名づけられないものである。カーシヤパよ、心はいかなる仏陀によっても見られなかったし、現在も見られていないし、将来も見られないだろう」



 『宝積経』はもう、ひとつの頂点をなしていると思う。

 つぎにナーガルジュナの『論争の超越』が収録されているが、ナーガルジュナは『中論』も論理学であって、わたしには極めて難解。

 パーヴァーヴィヴェーカの『知恵のともしび』は、言語の止滅が心の止滅であるといっており、ことばの止滅の大切さが説かれる。

 ヴァスバンドゥの『存在の分析』は、感覚器官の詳細な分析になっており、ほとんど役に立たない意味のない分析に思える。おなじくヴァスバンドゥの『唯識二十論』は、世界は観念や表象であるといった興味深い経典であるが、短い。

 モークシャーカラ・グプタの『認識と論理』は、他学派の論証などに費やされて、かなり難しいところがある。十二世紀からの各学派のまとめのようなところもあるが、そうたいして学びはないかも。

 仏教は、外側の印象でイメージをつくっている人が多いと思われるが、原典を読むことの大切さを痛感する。多くの偏見は、原典を知らないことからくる浅い印象でしかない。難解な論争や高度な知性に、面喰うことになる。

 仏教は、基本は言語の否定と実在論の過ちを指摘することにあると思う。現代では、この基本中の基本をおこなわない言語の信頼と無条件の礼賛があるから、仏教も顧みられない。

 言語と思考の非実在性を悟らないから、現代人は言語と思考の苦悩や苦痛の世界に閉じ込められている。そして、そのトリックやマヤカシにまったく気づかずに、人生の苦悩や苦痛に打ちひしがれている。現代人は、言語と思考の礼賛と信頼に毒されていて、仏教の必要性にまったく近づこうともしないのである。

 中公バックスはげんざいは古本でしか手に入らず、中公文庫で長大な大乗仏典が出されているようなので、こちらも手にしたいところである。わけのわからない漢文で読まされるのではなく、原典の現代語訳で読めるのでは、まったく意味も理解も違ってくる。

 仏教は、心理セラピーや言語学としても、こんにちでもまったく通用可能であり、その部分を救い出すべきであると思う。


大乗仏典入門経典ガイドブック大乗仏典〈8〉十地経 (中公文庫)大乗仏典〈10〉 三昧王経I (1) (中公文庫)大乗仏典〈15〉世親論集 (中公文庫)


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