HOME   >>  幻想現実論再読  >>  無と恐れ――『般若心経』 バグワン・シュリ・ラジニーシ
10 14
2017

幻想現実論再読

無と恐れ――『般若心経』 バグワン・シュリ・ラジニーシ

4839700079般若心経
―バグワン・シュリ・ラジニーシ、色即是空を語る

バグワン・シュリ・ラジニーシ
めるくまーる 1993-08

by G-Tools


 ラジニーシは段階的にしかわからないのだと思う。

 わたしのばあい、さいしょ読んだときは西洋哲学ばかり読んでいる中で手を伸ばして、ほとんどいっていることをつかめなかったと思う。つぎに思考の弊害や害悪に気づいて、思考を捨てることの知識に熱中した。

 こんかい、この本を再読するにあたって、「無」という言葉がいちばん響いてきた。

 思考を捨てるということはまだ思考の力が強く、抵抗しなければ抗せない状態である。しかし、いまは思考の虚構性や非実在性をより実感している。そういう中では、無が実在であるという言葉がいちばん刺さってくる。

「われわれは無から出現し
われわれは無であり
われわれは無の中に消え去ってゆく」



 人間が無であるというのは、なかなかつかみがたい。しかし言葉や思考は「あること」、「実在」の世界の夢の中に生きている。頭の中で描いたに過ぎない思考や心象を、実在のものと思い込んでいる。しかし、そんなものは「実在しない」のだ。それを実感できれば、われわれは無であるという宣言が、胸に迫ってくる。

 人はふつう、なんで肉体や物体が満ちあふれたこの世の中や自分が、どうして無なのかと思うだろう。「あること」「有」がとうぜんで、確実だと思う世界に生きている。わたしたちはこの思い込みをどうしても落とせない。

 時間や過去を見れば、いちばんよくわかるかもしれない。過去は瞬間ごとに消え去ってゆき、この地球上のどこにも存在しなくなる。しかし、わたしたちは過去を思い出しては、目の前にあるかのごとく、嘆いたり、悲しんだりできる。存在しないものに、感情するという状態は、いったいどういうことなんだろう?

 われわれは、実在しないもの、無のうえで、仮構の心象や思いによって感情を立ち上がらせているだけではないのか。それが幻影や幻想といっていいものなら、わたしたちは無のうえに立っているのではないのか。

 眠っているときも、われわれは無に帰す。あると思っていた心や言葉も、無のうえに立てられた幻想ではないのか。われわれはずいぶんと無に親しい。

「この<無>こそまさに中核、ハートだ
あなたの実存のハートそのものなのだ

死とはあなたがそれでできているまさにその実体だ
<無>こそまさにあなたの実存なのだ」



 わたしたちは死を恐れる。自分に無に帰してしまうことを恐れる。自分の一生がなんの価値も証ものこさずに、無に帰すことを恐れる。そうして、価値や意味を打ち立てようとする。

 しかし、その価値や意味は、言葉や思考で打ち立てられた幻想ではなかったのか。わたしたちは、幻想で人生の価値を打ち立てようとして、そして無から遠ざかり、目をそむけようとするのではないのか。

 これは、恐怖症のメカニズムと同じである。恐ろしいから目をそむけ、回避し、逃れようとする。そうすれば、もっと恐くなり、しまいにはあらゆることを恐れるようになって、家からも出られなくなる。

 回避が恐ろしさをつくる。だから、認知行動療法や暴露療法では、恐さに直接向かってゆき、恐怖が幻想であることの実感をつかまなければならない。

 だけど、当の本人にとっては、恐怖は実体のありありとある現実である。恐怖なんか逃れようがないと思って、恐怖を避けつづける。身体が恐がること、回路づけられた恐怖を回避することに夢中になってしまって、その体験がピークを越えるとしぜんに収まってゆく体内活動であることに思いもいたらない。

 われわれは無を恐れて、言語や思考で幻想の回避をしつづける存在ではないのだろうか。無を回避したいから、言葉や思考の煙幕で無をふさいだつもりになっている。有しか見ない。幻想や無であることに目をつぶりたい。

 われわれは、「実在論者」になることによって、この世の無から目をそむけたい。実在論者になることによって、恐怖や感情の実在を信じ、その牢獄から逃れられない。感情や心象が実在しないという実態から、目をそむけたいのである。

 そうして、われわれは感情のジェットコースターやメロドラマの白昼夢にひたりつづけ、幻想の中で生きることになる。

 人間は認識の錯覚におちいっていると思う。正視したくないのは、無を恐れるからだ。人生の価値や有意義を打ち立てたい人は、とうぜんにこの無の教えを嫌悪するだろう。無は人生の虚無であり、空しさなのである。


 ラジニーシはたくさんの本が出ていて、どれが代表作や主著とよべるのか、わたしにはよくわからない。『存在の詩』がさいしょに紹介された著名な書物になっている以外、どれがおすすめされているのか、わからない。

 だいたいは、経典や人物に的を絞った講和集が出されている。そのとりあげた題材の重要度にしたがえば、いいのだろうか。

 ラジニーシはたとえが多く、話は長く、冗長である。簡潔に簡明にというわけにはいかない。やさしい言葉で語りかけているとはいえる。

 この人はどうして簡明で体系的な著作を書かなかったのだろう。禅のような生や人物同士のライブこそが実在という思想があるからなのだろうか。主著や代表作とよばれるものがあれば、的をしぼって読みやすかったのにね。


存在の詩 和尚 OSHOTAO―老子の道〈上〉隠された神秘究極の旅―和尚、禅の十牛図を語る覚醒の深みへ―和尚 講話録 (タントラ秘法の書)


関連記事
Comment
Trackback
title>
Trackback URL
Comment form









管理者にだけ表示を許可する






google adsense
全ての記事を表示する
ブックガイド特集
月別アーカイヴ
プロフィール

うえしん

Author:うえしん
世の中を分析し、知る楽しみを追究しています。興味あるものは人文書全般。ビジネス書、労働論、社会学、現代思想、経済学、心理学、精神世界、歴史学。。 そのときの興味にしたがって考えています。

twitterはこちら→ueshinzz

FC2カウンター

Page Top