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08 30
2017

幻想現実論再読

時間を逃れる言葉――『「無常」の哲学』 谷貞志

4393131010「無常」の哲学」
―ダルマキールティと刹那滅

谷 貞志
春秋社 1996-06

by G-Tools


「およそ存在するものは瞬間的である。例えば、雨雲のように」
        ――ジュニャーナシュリーミトラ『瞬間的消滅論』



 時間を見れば、われわれがどんなに無や非実在の世界にのみこまれてゆく存在であるかわかる。過去は刹那ごとに、奈落の底のようにのみこまれてゆく。しかし、われわれは過去を思い出しては、目の前に存在するかのように泣いたり、悲しんだりできる。それはほんとうに実在しているのか。

 われわれは瞬間、刹那ごとに消滅してゆく存在ではないのか。そのような世界の法則を知ることによって、われわれはこの世界の実相を知るのではないのか。

 本書はなんとなく刹那滅という言葉にひかれて読んでみたが、ダルマキールティの言説もあまり知らなかったのだが、警戒していた仏教論理学の教説だと知って、返り討ちにあった。論理学ほど、わたしの苦手とするものはない。中間あたりから、ほとんどなにをいっているかわからない。

 導入部の著者の死の恐怖からの語り口は、じゅうぶんに興味あるものだったし、時間論にかんしてはもっと学びたいと思うのだが、いかんせん仏教論理学の壁は、わたくしには突破しがたい。ほんと、難解。

 だいたい、この本であげられているディグナーガ(480年–540年)や、ダルマキールティ(600年–660年)といった人は、6世紀や7世紀の人である。日本では、古墳時代や飛鳥時代なのであって、むかしの人は原始人のような頭をしていたという進歩史観がまったくあてはまらないことを思い知らされるのである。

 ひとつ感銘した文としては、言葉というものは存在から時間性を奪ってしまうということである。「私」という言葉も、いついかなるときも「私」なのであって、あの時の私も、この時の私もずっと同じ存在として、抽出されてしまう。しかし、この世の存在に時間の法則をのがれた存在はあるだろうか。

 言葉は、時間から切り離された超存在というべきものを、はじめから打ち立ててしまう。時間を越えた永久に存在するかのような存在を、言葉ははじめから含んでしまう。そして、人は時間性からのがれられないこの世界から、時間をこえた永遠の存在を望んでしまうのではないのか。

 つまり、言葉自体がすでに時間をこえた永遠の世界をもたらしてしまうのである。

 人は後世にのこるものとして、恒常的な石に名前や言葉を刻んでおこうとする。それは言葉自体がもっていた時間の超越性ゆえであって、この世に時間性を逃れ得る存在などなにひとつない。言葉は、われわれから劣化や変化や、消滅からの超越を夢想させてしまうのである。

 われわれは刹那や瞬間ごとに消え去ってゆく時間の中に生きる存在である。いかなる存在といえど、時間性から逃れられない。しかし、言葉は違う。言葉はそれ自身のはじめから、時間性を超越している。それゆえ、われわれは、時間をこえた迷妄や虚妄にさいしょから迷い込まされるのではないだろうか。

 だけど本書は論理学が難解すぎて、なかなか吸収するのがむずかして、論理学というのは、もっとわかりやすく語ってくれたらね、と思うのだけどね。


刹那滅の研究認識論と論理学 (シリーズ大乗仏教)東洋の論理 空と因明岩波講座 東洋思想〈8〉インド仏教 1


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