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08 16
2017

幻想現実論再読

人はなぜ無を恐れて、言葉や虚構を創作するのか

 言葉はどこにも実在しない。しかしあたかもそれが現実に目に前にあるかのように思うことができる。

 過去も瞬間ごとに消え去ってゆくのなら、過去はもはやどこにも実在しない。しかしそれを思い出すと、あたかも目の前に現実に存在するかのように泣いたり、悲しんだりすることができる。

 人は奇妙な現実には存在しない物事にとり憑かれている。そのありさまは、まったく映画やマンガのようなフィクションを楽しんだり、悲しんだり、人生の一大事に思うようなあり方と、まったく同じである。

 つまりわれわれは現実と思うものを、フィクションのようにしか捉えられない。

 フィクションなら、それは現実には存在しない虚構だという約束事が根本的には知られている。しかしわれわれが現実と思う言葉や過去が存在しない「無」であること、「幻想」であることに思い至る人はめったにいない。

 言葉や過去がわれわれを魅了してやまない出来事としても、それが現実には存在しない「無」や「幻想」であるという根本を捉えないと、われわれは大きな過ちを犯す。

 言葉や過去は無なのであるが、言葉を語ったり、過去を思い出すことによって、存在しないそれはあたかも現実に存在するかのように現出しはじめる。

 人間の認識というのは、意識しなければ存在しないが、意識しはじめると存在しはじめるという性質をもっている。身体の感覚だってふだんは意識しないが、意識しはじめると存在しはじめる。なにかの出来事だって意識しはじめると、そこになかったものが存在しはじめる。意識は、創出の性能をもっている。

 われわれの悩みや苦しみだって、出来事や世界の結果によっておこるものだと思っているが、意識しはじめたり、考えたりしはじめると、そこにはなかったものが存在しはじめるものである。

 意識や悩みというのは、そこになにもなかったものを「創作」する性質をもっている。出来事の結果だと思っているのが、それは意識したり考える前はどこにも存在しなかったのだから、意識や思考は「創作」の次元をもっている。

 意識や思考は、なにも存在しない無から、なにかを「創作」するのである。それが悩みや苦しみであったら、われわれはみずから苦悩や苦痛を、みずから「創作」して、「自作自演」していることになる。

 意識しはじめることは、なにもなかったものから、なにかを「創造」させる性質をもつものである。われわれは悩みを思うことによって、みずからを苦しみの渦中に放り込むのである。自分の意識や思考が、創作しているという性質に気づかないからである。


 言葉はなにもないところから、なにか「有るもの」をつくりだす「創作」の性質をもっている。過去は瞬間ごとになくなってゆくのなら、思い出すことは過去をいま現在に「創作」することである。

 そして、人はそれが現実には存在しない、「無」や「幻想」であるという根本性質にまったく気づかない。存在しないフィクションの世界にもりもり呑みこまれてゆくことと同じである。

 人は存在しないこと、非実在なことのほうには目を向けない。有ること、創られたこと、目を奪われるものばかりに関心を向ける。それが実在しない無であるという一事にまったく目を向けなくなる。

 言葉や知識は、創造しないことにはなにも気づけない。言葉は巧みな洞察力や観察力を駆使して、賢明で堅実な知恵を蓄積させるように仕向ける。しだいにそれが実在するのか、実在しないかの境界をこえて、ずっと存在しているかのように思うようになる。

 人は脳内にある存在しないものを、現実の地上に存在させることがずいぶん好きである。たとえば、マンガや映画の虚構でしかなかったディズニーランドやユニバーサル・スタジオ・ジャパンのような虚構のアトラクションを現実化させて、おおいに喜ぶ。

 都市や建物だって、さいしょは人間の脳内にしかなかった想像や計画でしかなく、その頭の中にあった現実に存在しないものをこの地上にたくさんつくりだすことを、文明の進歩だと信じて都市や建物をつくってきた。

 人間は想像と現実の区別をつけない。想像されたものを現実に創出させることがずいぶん好みである。存在しない想像を現実に存在させることがずいぶん好みである。

 それはわれわれの認識構造が、想像したものを現実のように見なす認識の根本構造と同じだからではないのか。

 われわれは存在しないものより、存在するものに目を奪われる。創作された豪華で絢爛たる創作物に目を奪われ、おおいに喜ぶ。

 存在しないものより、存在するものである。そうして、現実には存在しないものを創出しては喜び、それが現実には存在しないという境界性をどんどんなぎ倒してゆく。

 虚構の城の下は、「無」であり、「非実在」である。フィクションが現実にあるかのように見えて、それはまった存在しない虚構であるように、われわれの創出したものは、無や幻想を足場に、地下に抱えている。

 神なんてという人格神も、宗教の根本である神秘思想では存在しない無であったり、非二元性や、言葉であらわせないものを表現するものであったはずである。それが現実に存在するあたかも人間の衣をまとったような存在として「創作」されるようになっている。

 われわれは「ないこと」より、「有ること」のほうがずいぶん好きなようである。創造された創作された豪華な建物に目を奪われる。そして、それがまったく存在しない「無」や「幻想」であることをすっかり忘れてしまう。

 じつは、存在しない無や幻想であることに気づくことが、大いなる安らぎや非二元性や、大いなる一体感を感じさせるベクトルに向かうほうではないのか。無や幻想であるベクトルに向かうほうが、安らぎである。

 しかし人は「有」や「創出」されたベクトルばかりに向かう。そうしてどんどん現実の世界から離れ、刹那の瞬間しか存在しないこの世界に、永遠に残る創作や幻想をもとめて、われわれは幻滅や苦悩におちいる。

 われわれは創出や創作のベクトルに向かい、この世界の現実原則、消滅しては消え去ってゆく世界に抗おうするのではないのか。その結果、存在しない世界の幻滅と破滅に襲われる。

 フィクションの世界に魅了されて、その世界に憩い、永遠に抜け出したくないと誓う子どものようである。

 われわれは映画やマンガはフィクションであり、現実には存在しないとわかっているから、虚構から離れられる。しかし、われわれの認識能力は、この現実世界すらも虚構の世界で捉える性質をもっているのではないのか。

 虚構の豪華な建物、ないものよりあるものに目を奪われるわれわれの性質、そして存在しないものに存在させられる意識の能力をもつがゆえに、われわれは虚構のフィクションの世界にずっと捕えられたままではないのか。

 そもそも、言葉や過去が存在しない虚構であるという性質さえ人は気づかない。過去は実在すると思い込む人は後をたたないわけだし、言葉がどこにも実在しないものではないのかといった疑問さえ抱く人もいない。

 われわれは無や非実在であることを、人生の無価値や無意味だと恐れるのだろうね。言葉で出来事で人生の価値と意味をつかみとりたい。さもないと人生の意味はまったく無意味だ。

 そうして、言葉と想像によって、存在しない人生の価値や業績を追い求めるようになる。言葉や想像が、喜びをつくると同時に幻滅やいつわりをつくりだすというもう一方の悪の性質に気づかずに、虚構の建物を追い求めようとするからなのだろうね。

 人は、存在しない虚構の建物という人生の業績や価値を打ち立てようとする。それは意識や思考、言葉でもおこっており、われわれはきょうも存在しない幻想に価値を追い求めようとするのだろうね。

 無や非実在に気づくことは、人の必死な業績を残そうとするあがきに笑えるようになることであり、安らぎに憩えることではないのだろうか。もしそれが無意味や無価値を思わせるなら、まだ言葉や意識の「フィクション性」や「幻想性」に気づいていないということだ。

 われわれは、過去が奈落の底に瞬間に落ちてゆく世界に暮らしている。言語や過去の想起が、現実にはどこにも存在しない世界に生きている。安らぎのベクトルは、この世界の法則に抗う方向にあるのだろうか。


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