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08 09
2017

幻想現実論再読

「わたしはいない」――『意識は語る』 ラメッシ・バルセカール

4864511470意識は語る
―ラメッシ・バルセカールとの対話

ウェイン・リコーマン 編
ナチュラルスピリット 2014-12-19

by G-Tools


 ニサルガダッタ・マハラジの弟子で、師匠のタバコ業者とおなじように、銀行の頭取を定年までやっていた一般の活動が長かった人で、といっても受胎の瞬間からこの世は幻想だと知っていたといい、ほかのグルにも長くついた人らしいが。

 わたしにはこの本には鋭さやものすごいいいという印象はうけなかった。ニサルガダッタ・マハラジの本のようには赤線や感銘した文章に出会いつづけなかったという意味であるが。この人が語り、影響をうけたといわれるニサルガダッタ・マハラジやラマナ・マハラシ、クリシュナムルティを読んでいたり、比べるという意味においてであるが。

 質問者にたいして、すべて「観念だ」と指摘するくだりはいいと思う。

「バルセカール 観念でないものがありますか?
質問者 至高の現実は観念ではありません。
バルセカール もちろん、観念ですよ!
質問者 本当に?
バルセカール はい、本当に! この意識が「私は在る」の中へ突然爆発する前は、何の観念もありませんでした。観念の必要性がなかったのです。なぜなら、何かに気づく誰もいなかったからです。この「私は在る」の意味において、私が何を言っても、それは観念です」



 人は事実や至高の存在を思い描いては、その頭で描くものを現実化しはじめる。バルセカールは、その時点で観念化の指摘をする。人はいつもこの過ちに陥る。いっているそばから、現実化しはじめる。この指摘は、とても重要だと思う。

 バルセカールのいっていることの全体から受ける印象として、「誰もいない」「自分はいない」「個人はいない」という指摘の要素が多かったように思う。仏教の無我とか自己を捨てることと同じ意味だが、この指摘はさいきん遠ざかっていた。

 だから、個人がいないという意味で、よく「肉体精神機構」という言葉をバルセカールは使う。全体やその連関のなかで生かされて、行動されている、個人や自分がないという意味での肉体精神機構という言葉。

「ですから、ただ目を閉じて、リラックスして、本当は「誰」もいないことを理解してください。その「誰」は単に想像された観念です。「誰」もいませんし、探求すべき「何」もありません。どんな「誰」も、どんな「何」もないことが、知的ではなく、あなたに感じられ、本当に理解されるとき、そのときには途方もない何もない感覚、完全なる自由の途方もない感覚、現在の瞬間、永遠の瞬間を感じます。実際、永遠の瞬間、現在の瞬間こそが、その経験なのです」



 個人や自己という感覚が、さまざまな観念や想像をかたちづくる。そこから世界はひろがり、その世界は実体や実在のものと感じられるようになる。人はそこにしがみつく。自己の観念から広がった世界像。

 たしか、ラマナ・マハラシは「私は誰か」と問えといっていた気がするが、「わたしはいない」ことを知ることが大切だったわけだ。「自分」を自分の中に探していっても、どこにも自分は見当たらない。

 他人から見た印象や自分から見た印象があるかもしれないが、それも観念や記憶という実在しないものだ。自分のなかには身体感覚があるかもしれないが、それも実体のあるものではない感覚だ。われわれはじつに実在の怪しいものを基盤にしている。

 そして、この世界が幻想であり、実在しないというメッセージもとても大事だと思う。

「基本的には、悟りはたった一つのことを意味しています。現実に見えたことが、実は非現実であるという当然の理解です。そのときあなたは非現実を現実として経験します。突然の超越の感覚、超越のヴィジョンがあるのです。すべては夢であるということが、もはや観念ではないのです。それは現実になります。仮に肉親の死別があったとします。その死別に対する肉体精神機構の反応がありまるが、深いところで、その死別もまた夢であるという理解があります」



 バルセカールはさまざまな箇所で、この現実と思われているものは夢であるといっているのだが、わたしに理解では、言語や想像で捉える現実はそれ自体ではなくて、実在しないものであるということであると思う。わたしたちが認識するものはすべて実在するものではない。

 わたしたちは認識したもの、思い描いたものを、現実にあるものと思い込む機構に囚われている。想像したものは、実在はしない。だけど思い描くことは現実にあるかのように思われてしまう。人間の認識や想像力というのは、そういうものである。覚者はこの認識の誤りをいっているのだと思う。

 バルセカールは、時間も空間も観念にすぎないといっている。わたしたちは時間も空間も実在するものと思っているのが、そこから人間の認識の誤り、実在しないものを実在するものと思い込むカンチガイははじまるのではないだろうか。

 「明け渡し」という言葉もひさびさに聞いた。人は悟りを努力やほしいものとして求めると遠ざかる。意志という個人を創作させるものを立ち上げてしまうからだろうか。まだ個人という幻想は消えていないのだ。

 神秘思想や宗教を読んでいると、ますますたんに人間の認識の誤りについて指摘しているだけに思えてくる。人はドクサの認識をつくってしまうのだ。

 個人があり、わたしがおり、そこから立ち上げられ、紐づけられる言葉と観念の世界。そしてそこには、なにひとつ実在も実体もない。「意識は語る」という題は、唯心論を語っているように思うが、それにさえ実体はない。

 この世界は瞬間ごとになくなってゆく。生命がこの世界を捉えるために、時間に抗して記憶で知覚をつくったことによって、その世界を実在すると思ったのではないだろうか。世界は瞬間に変化する。記憶をもとに知覚されたこの世界はなんだろう。

 おまけに人は言葉や観念、想像で世界をたちあげ、それも実在するものとカンチガイする。その最たるものが、わたしや個人の観念で、この個人概念が強力にこの幻想世界に絡みとる。

 ん? バルセカールは自分はいないと無我を説くのだが、師匠のマハラジは「私は在る」と説いていたな。マハラジの言葉をよく理解していなくて。


誰がかまうもんか?! ―ラメッシ・バルセカールのユニークな教え―人生を心から楽しむ―罪悪感からの解放アイ・アム・ザット 私は在る―ニサルガダッタ・マハラジとの対話あるがままに―ラマナ・マハルシの教え最初で最後の自由(覚醒ブックス)


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