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08 06
2017

幻想現実論再読

思い出は賛美すべきものか、否定すべきものか

 恋愛映画などでは、思い出は失ってはならない大切なものと訴えられるのがふつうである。恋人は思い出の共有がいくつも積み重ねられて、より深い絆に育ってゆくといわれる。

 思い出の共有ができない悲恋ものとして、『ぼくは明日、昨日のきみとデートする』という物語があるのだが、思い出を共有できないが、この瞬間だけの出会いを大切にするといったニューエイジ的メッセージも見受けるようになった。

 過去は変えられない、だけど変えたいという願いはタイムリープの物語としていくつもつくられてきたのだが、日本の伝統文化は、禅のこの瞬間を大切にする教えを中心に広がっており、それは武道や茶道、弓道などでも実践されてきた歴史がある。

 記憶にこだわることは、速やかな、なめらかな行動や実践において、意識をとどこおらせ、停留させる阻害物として考えられてきた。日本の伝統文化は、記憶を障害として排斥してきた流れがあったのである。

 戦後の社会は、過去の後悔や過去のやり直しをたえず願ってきた社会である。過去の後悔こそが自分のアイデンティティだといった様相を見せるほど、過去のメランコリーに深くのめりこんできた印象がある。過去の後悔や憂いこそが、人生をまた深く思い入れの強い、味わい深いものとして感じさせてきた。

 アメリカのカウンターカルチャーや禅・東洋宗教の流入により、過去を排斥して、いま・この瞬間だけを大切にするといったニューエイジの流れも、ちまたにはよく聞くようになった。マインドフルネスのムーヴメントはもちろん、いまこの瞬間を大切にする運動である。

 思い出と過去の排斥はどのように共存しているのだろうか。どちらかがバランスを崩して、一方的に席巻することはあるのだろうか。

 ニューエイジや神秘思想の考えでは、過去は実在しない、すでになくなった、どこにもないものである。過去はこの瞬間も奈落の底に消えてゆくものである。したがって、過去や思い出にひたることは、もうすでに存在しなくなった幻想や幻を愛惜することである。そういった実在しないものを否定するのが、ニューエイジや神秘思想の考えである。

 過去はこの地球上から消え去ってしまった。思い出を愛するということは、もうまったく実在しなくなった記憶や心象にしがみつくことである。それはマボロシや幻影を追いかけ、失った苦しみや悲しみを生み出すものである。ニューエイジは過去の郷愁を許さないのである。

 なによりも、時間がこの瞬間も奈落の底にすべり落ちているとしたら、過去を思い出すことは、実在しないものをあたかも現実にあるかのような錯覚や過ちに陥ることである。

 そして、神秘思想というのは、このような実在しない心象や思考を削ぎ落としてゆく実践のことである。われわれの日常意識は、過去をひんぱんに思い出し、思考することによって、存在しない夢を見ている同じ状態だと、神秘思想家は語ってきたのである。

 過去の思い出を大切にするということは、実在しない心象や記憶を大切にするということであり、存在しないものと現実にあるものの区別を失うことである。

 過去の存在しなくなった記憶や心象をいつまでもくりかえし見るということは、夢見ている状態となんら変わりはないのではないか。わたしたちは過去や思い出を大切にするということは、現実と実在しないものの区別を失うことである

 思い出主義というのは、存在しなくなったものをあたかも現実のように悲しみ、憂えるものである。わたしたちはそういった存在しないものの悲しみや憂いによりとり憑かれてきたのではないのか。

 過去はどこにも実在しない、存在しないものといった見解が、ちまたで語られることは少ない。思い出主義は、そういった存在しなくなったものの悲しみや憂いにいつまでもとり憑かれることではないのか。

 過去の記憶や思考といったものは、より実在性のある実体のものであるという捉え方が、広がっている。

 記憶や思考がどこにも実在しない幻影のようなものであるという理解が、世間にはない。そのことによって過去や思考はより実体性のあるものとして、わたしたちを苦しめている。

 わたしたちは、思考や心象といったものを、存在しないものとは思わずに、リアルに実在するものという思いに疑いをさしはさむことはない。おかげで、われわれは過去や思いといったものを実在するもの、動かしがたい現実だとして、われわれにのしかかっている。

 恐怖症や神経症といったものは、実在しない思考や感情を現実に厳然とあると思い込む素朴な認識の常識によって起こっている。

 恐怖や感情は、実体ある物体のような存在になっている。それが幻影や頭の中の心象であったり、感覚であるという事実に気づかなくなっている。そのことによって、よりリアルな恐怖や感情は自分から離れられないものになった。

 神経症の療法としてもちいられる森田療法は、不安があっても行動するといったあるがままの状態を実践することをすすめるのだが、いまいちその感覚がわかりづらいのは、感情や不安といったものが実在しないものだという理解をもたないからではないだろうか。

 感情や心象をリアルに実在するものと思い込むと、物体のように力づくで動かそうとしてしまう。感情というのは存在しないものを起因にして体に発生するもので、それをむりやり止めようとすることは、またべつの系統から感情を力づくで動かそうとする作用を働かせ、神経の亢進を生み出してしまう。

 感情というのはしぜんに収まり、ピークを越えてしぜんに収斂してゆくものであるという理解より先に、その感情を止めようとして、より激昂した感情世界を亢進させてしまう。

 感情や心象を実体化したことによる、認識の誤りに陥っているのである。

 うつ病だって、思考や感情の実体視という過ちに気づかないために、どこまでも感情の波に呑みこまれることではないのか。

 わたしたちは、存在するものと存在しないものの区別をできていないのである。存在しないものをどうにかしようとして、べつの方面から力を入れてしまい、わたしたちはその感情のフィールドに囚われるのである。

 思い出主義は、存在しないものの実体視や現実化をともなうものである。それが導くものは、実在しないものに対する実在視をもたらし、われわれにする必要もない苦悩をつけ加えている。

 わたしたちは、最初の一歩でつまづいてしまっているのに、その過ちに気づかない。

 思い出主義というのは、実在と非実在の分岐点につながる最初のレールではないのか。過去というもう存在しなくなったものを、あたかも現実にあるかのように郷愁するということは、非在の世界にふらふらとさまよい出してしまうことである。

 われわれはちっとも、それが存在しないもの、記憶や心象だといった存在であることをすっかり忘れてしまう。分岐点のレールですべり出したわたしたちは、実在するものをなにひとつつかまないままに、その世界を走り出していってしまうのではないだろうか。

 思い出は、幽霊や亡霊、サンタや妖怪が実在する世界と同様のものである。存在しないもの、存在するものの区別がつけられない幻影や幻想の世界である。

 思い出を大切にするといった第一歩は、最初から実在しないレールの分岐点に乗りこんでしまうことではないだろうか。



こころの達人―生きる意味を問い、語りかける達人たちのメッセージ (NHKライブラリー)リチャード・カールソンの楽天主義セラピーぼくは明日、昨日のきみとデートする (宝島社文庫)日本の弓術 (岩波文庫)神経質の本態と療法―森田療法を理解する必読の原典


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