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07 11
2017

幻想現実論再読

あなたの幻想と非実在を悟れ――『アイ・アム・ザット 私は在る―ニサルガダッタ・マハラジとの対話』

4931449700アイ・アム・ザット 私は在る
―ニサルガダッタ・マハラジとの対話

スダカール・S. ディクシット
ナチュラルスピリット 2005-06-01

by G-Tools


 ネットで高い評価をうけているので、図書館で借りて読んでみたが、これは手元においておくべきだった本だね。

 クリシュナムルティやラジニーシ、ケン・ウィルバーに比肩する存在だと思う。クリシュナムルティのように難解ではなく、ラジニーシのように悠長で詩的ではなく、ケン・ウィルバーのように現代的な説明にも長けている。

 ただし、神秘思想を語っているので、101人の質問者との対話は、ことごとくすれ違っているとしかいいようがないが。禅者の公案のようにはつき離さないが、質問者が概念やマインドで理解しようとしても虚を突かれたさまがつたわってくるだけだ。

 ニサルガダッタ・マハラジは、言葉や概念による幻想世界の警告もよく発していて、この説明をしっかりとできる人がより理解に近づけると思う。

質問者 あなたが自分の世界を体験しているという事実そのものが、すべての体験に固有の二元性を暗示しています。
マハラジ 言葉の上ではそうだ。しかし、あなたの言葉は私には届かない。あなたの世界では語られないものは存在をもたない。私の世界では言葉とその内容が存在をもたないのだ。あなたの世界では何もとどまらない。私の世界では何も変わらない。私の世界は真実だ。あなたの世界は夢でできているのだ」



 言葉と観念による幻想世界がまったく存在をもたなくなった世界。ニサルガダッタ・マハラジはその世界へと誘うのだが、この言語世界をはがすのが、とりわけむづかしい。これはけっこう言語化できる事柄だと思うので、禅のようにぼかして拒絶するのではなく、西洋的な説明スタイルでかなり遠くまでいけると思うのだけどね。

「すべてを夢として見なすことは、あなたを解放する。夢に現実性を与えるかぎり、あなたはそれらの奴隷だ。ある特定のものとして生まれたと想像することで、あなたは特定のものとして在ることの奴隷になってしまう。あなた自身を過程として、過去と未来、そして物語をもつ者として想像することは奴隷状態の本質なのだ。実際には、私たちに物語はない。私たちは過程ではなく、発展もせず、崩壊もしない。すべてを夢と見て、動じずにいなさい」



 わたしたちは言葉で世界を捉えようとして、それを実在するものとカンチガイしてしまう。その想像した世界を存在しないものと対比したときに、その虚無性がうきあがってくる。しかし、これに気づくことのなんとむずかしいことか。

「ひとたび世界はあなた自身の投影だと悟れば、あなたはそれから自由だ。あなた自身の想像のなかにしか存在しない世界から自由になる必要はない。…それは想像を現実と見なす習慣によるものなのだ。想像を想像として見なさい。そして恐れから自由になるがいい」



 この言葉の世界があなたを縛るつける牢獄や束縛になり、そして自分自身でそれを縛っていることに気づかなくなってしまう。世界を言葉で創造していることに気づかないことは、自縄自縛しているようなものだ。

「あなたは観念に実在性を与えている。だが、観念は実在を歪曲したものなのだ。すべての観念化を放棄しなさい。沈黙し、醒めていなさい」



 観念による実在性こそ、人が警戒しなければならないものである。こういうことを教えてくれる人は世間にいたりするだろうか。神秘思想家だけがそれを警告できる。

「あなたがあなた自身だと思いこんでいるすべてが単なる幻影であり、そして一時的なものを一時的なものとして、想像上のものを想像上のものとして、非現実的なものを非現実のものとして、純粋な気づきのなかで超然と離れて見るとき、あなたは探求の終焉に突き当たるのだ。それは難しいことではない」



 わたしたちは自分がたどってきた過去や業績を自分だと思い込んでいるのだが、それは実在するものではない。それはわたし自身ではない。飛行機雲をいくら探っても飛行機の姿かたちは見えないわけで、飛行機雲をわたしたちは自分自身だと思い込んでいる。

「あなたが名前と形のあるものだけが存在するという考えにしがみつくかぎり、至高なるものは、あなたにとって非非存在のものとしてしか映らないだろう。名前と形は実態のない空虚な殻にすぎず、実在は名前も形もない純粋な生命のエネルギーと意識の光だ」



 わたしは世界像の幻想性についてはだいぶわかったのだが、知覚・視覚世界の非実在性にはなかなか到達できない。マハラジはその先の実在の世界を多く語るのだが、わたしの段階ではまだ理解できないというしかない。

 マハラジは、くりかえしくりかえし「私は在る」という感覚に帰れと指示を与えるのだが、わたしにはこの感覚がいちばんわからない。いちばん中心的な教えみたいなのに、さっぱり感覚がつかめないのが惜しい。

 そして、身体の幻想性や生と死の幻想性にも言及してゆくのだが、わたしにはただ学ぶことしかできない。これを観念の世界として斥けるのか。ただの観念だったのか。

「実際には、身体というものは存在しないのに、「私は身体だ」という観念は身体に実在性を与えてしまう。それはただマインドの状態にすぎないのだ」



 マハラジは、マインドという言葉をほぼ悪者としてか使っていない。精神や思考の意味合いだと思う。ぎゃくにわたしたちはマインドや思考こそ、自分だと同一化しているのではないのか。

「私は今までも、現在も、これからも身体ではない。私にとってこれが事実なのだ。私もまた、生まれてきたという幻想のもとにいた。だが私のグルが、誕生と死はただの観念だということを私に見せてくれたのだ。誕生は「私は身体だ」というただの観念であり、死は「私は身体を失った」という観念なのだ」



 誕生と死は、現在の実在性を逃れた、もうないもの、まだないものでしかない。それは実在しない観念や空想でしかない。わたしたちはそれを見ないで、生と死に実在性を与える。

「あなたはけっして生まれなかったし、けっして死ぬこともないだろう。生まれて、そしれ死んでいくのは観念であり、あなたではないのだ。あなた自身を「私は生まれた」という想念と同一化することで、あなたは死をまぬがれない者となる。…すべての名前と形は、意識の大海のはかない波にすぎず、ただ意識だけが存在するのだ」



 生まれもせず、死にもしないというのは、それが観念にすぎないということをいっていたのか。経験をおぼえておらず、死はまだ経験したものではない。それは空想として、実在するものではない。

「あなた自身を身体と考えることで、あなたは世界を物質的なものの集合として見なしてしまう。あなた自身を意識の中心として知るとき、世界はマインドの大海として現れる。実在のなかのあるがままの自分自身を知るとき、あなたは世界をあなた自身として知るのだ」



 身体の同一化をやめること。身体の観念をなくしたときに、大海のなかの一滴となる。


 ニサルガダッタ・マハラジは理解の段階でしか捉えられないのだろう。わたしにも実感として理解できない部分もたくさんあった。はじめてこのような書に出会う人はもっと面喰うだろう。

 世界像の虚構性や非実在を知ることはとても大事な知恵だと思うし、自分という物語の幻想性を悟ることも人を解放に導く。だけど、こういう知識は遠ざけられ、いかに理解と実感がむずかしいか。

 わたしたちは、実在しないものの世界にいかにまみれているか、言語と想像力の能力ゆえに背負った悲劇の荷物のおろし方がわからないのだろうね。

 なお、本書は560ページの大部であり、質問者の項目はそう長くないので読みやすいが、体系的な一から説明するスタイルでも読みたいものである。


存在し、存在しない、それが答えだ (- To Be and not to be, that is the answer - (覚醒ブックス))顔があるもの顔がないもの―自分の本質を再発見する存在することのシンプルな感覚覚醒の炎―プンジャジの教えあるがままに―ラマナ・マハルシの教え

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