HOME   >>  幻想現実論再読  >>  感銘うけず――『中論』 ナーガールジュナ
06 18
2017

幻想現実論再読

感銘うけず――『中論』 ナーガールジュナ

4873391172中論「改訂版」
ナーガールジュナ・竜樹尊者
西嶋 和夫訳
金沢文庫 2006-06

by G-Tools


 基本的にわたしは思考や観念が存在しないこと、知覚世界も実在しないことをもっと深く知りたいと思っている最中なので、そういう時期に読んだナーガルジュナのこの本は、あまり合わなかった。

 ナーガルジュナは世界の実在性を否定しているのか、非実在性をいっていたのか、矛盾する言葉も見受けられるのだが、「釈尊の教えは実在論である」と扉に掲げられているように、空とか無を否定するというのだろうか。そこまでいけば、仏教の否定に思えるが。

 まあ、この本は教説や学説に対する反証がおもになっており、自分の説を主張するというタイプの本ではないから、ことさらわかりにくい。反証や論理でよくわからないところも多々あり、間テキスト的な書物は苦手である。

 章のタイトルが、「~に関する検証」となっており、否定や反証がおもな目的の本である。その教説をなにを指すのかよく知らなかったら反証もわからないわけで、この本のわからなさの由来はそんなところにあるかもしれない。

 まあ、深く追及するに足りる好奇心を刺激されなかった本である。

 つぎのような説がいちばん聞きたかったものである。

「釈尊が五つの集合体を離れて、物事をありのままに受け入れている際には、(頭の中で考えられた)主観的な存在は全く実在していなかった。

そして(頭の中で考えられた)主観的な存在が全く実在していない以上、(外界の刺激から生まれた)客観的な存在を認めることをしなかった」



 思考や観念が実在しないことはだいぶ実感できるようになったのだが、知覚世界の厳然性はまったく揺るがせないので、こういう意見は参考になる。知覚も観念のような実在しないあり方をしているのだ、そういう考え方は理解の一助になる。

 この本はサンスクリット語から直接翻訳されたようで、じゅうらいの鳩摩羅什の訳は、単語は不鮮明で文法は混沌としており、原文の趣旨から離れているとこの訳者はいう。

 仏教は観念的な虚無思想ではなく、実在論的に理解すべきだというのが訳者の主張であるが、わたしは虚無思想のほうをもっと追究したいし、その虚無は人を解放する虚無ではないのかとむしろ思うのだが、まあその定義がよくわからなくなっている。

 ナーガルジュナは、シャカも、実在するか実在しないかの議論はするなと厳しく戒めたといっているのだが、わたしは思考や観念の非実在を深く知ることこそ、人を解放する知識だと思うのだが。

 ところで4,5世紀のアサンガやヴァスバンドゥは興福寺にリアルな彫像が残っているが、3世紀のナーガルジュナになると、一般的で抽象的な仏像や仏画しか残っていないようだ。ナーガルジュナは神化がすすみ、唯識学者は物質主義な見方をもっていたということだろうか。


龍樹 (講談社学術文庫)大乗仏典〈14〉龍樹論集 (中公文庫)龍樹(ナーガールジュナ)―空の論理と菩薩の道龍樹の仏教: 十住毘婆沙論 (ちくま学芸文庫)ウィトゲンシュタインから龍樹へ―私説『中論』

関連記事
Comment
Trackback
title>
Trackback URL
Comment form









管理者にだけ表示を許可する






google adsense
全ての記事を表示する
ブックガイド特集
月別アーカイヴ
プロフィール

うえしん

Author:うえしん
世の中を分析し、知る楽しみを追究しています。興味あるものは人文書全般。ビジネス書、労働論、社会学、現代思想、経済学、心理学、精神世界、歴史学。。 そのときの興味にしたがって考えています。

twitterはこちら→ueshinzz

FC2カウンター

Page Top