HOME   >>  幻想現実論再読  >>  神秘思想の言語化の極み――『意識と本質』 井筒 俊彦
06 13
2017

幻想現実論再読

神秘思想の言語化の極み――『意識と本質』 井筒 俊彦

4003318528意識と本質
―精神的東洋を索めて (岩波文庫)

井筒 俊彦
岩波書店 1991-08-08

by G-Tools


 スピリチュアルとか神秘思想の怪しい内容であっても、岩波文庫に入れば、正統的なアカデミックに見えるのはずいぶんこっけいなことである。

 井筒俊彦は英文でほとんどの論文を発表していたということで評価が高く、この『意識と本質』は禅の精神を西洋哲学で語ろうとした西田幾太郎の『善の構造』の系譜として、はやくも岩波文庫入りしたのかな。

 宗教の神秘思想を時系列ではなく、共時的にまとめようとした井筒俊彦のこころみは、トランスパーソナル心理学のケン・ウィルバーを思わせるもので、心理的セラピーの次元をとりこんだケン・ウィルバーのほうがよほど役には立つと思うけど。

 繊細な次元を、よくぞここまで意識化、言語化できたなと思う。微細で繊細な次元のひだやしわを可能な限り言語化して光を当てる能力は驚嘆的である。

 しかし、なにもそこまでむずかしくいわなくても、もっとかんたんな次元で話せることではないのかという思いもある。

 この本は、言語分節化以前の世界をさぐった本であるといえるのだが、あまりにも微細で微に入り細にうがちというのか、なにを語っていたのか、頭でどう整理したらいいのかとまどうので、さいごには理解に達しなくなってしまう。

「なにを語ろうとしていたのだろうか」という漠然とした読後感がのこる。

「我々がXを「花」と認めるとき、Xはその一回限りの独自性を奪われて、公共化され、画一化される。…XはもはやXという個物ではなくて、どこにでもあるような無数の花の一つになってしまう。人間の日常的存在世界とは、マーヒーヤの生み出すそのような平均価値の巨大な体系機構にほかならない」



 言葉が個別の一回きりの事柄から一般的な共通する感覚にうつしかえられることを語ったわけだが、こういう感性は文学者とかマンガ家に語られたりする繊細な感覚である。

 リルケは病気という一般的なものがあるのではなくて、その人の性格や人となりと結びついた独特で個別な病態というものがあるのだといっていたが、言葉というものは個別的で一回きりのものごとを、共通化して平均化して宙づりにさせてしまう。

 言語が仮構してつくりだす世界を、古今東西の神秘思想をもちだして語るのがこの本なのであるが、その独自文化を詳細にとりあげるために理解はだいぶ迂遠になってしまう。

「だから「本質」は仮構であり虚構であって、真に実在するものではない。本当はありもしない「本質」を、あたかも実在するかのごとくに仮構して、それに基づいて様々な事柄を自体的存在者として固定し定立するこの表層意識本来の働きを、仏教では一般に妄念と呼ぶ。妄念分別とも。

実在しない「本質」を基にして幻出された偽りの事物、眼病患者の目の前にちらつく空華、そんなものを、なぜ苦労して摑もうとするのか、と禅の三祖、僧璨は問うのだ」



 『大乗起信論』でいわれていたような妄念の世界を語る用語がまたむづかしく、理解をはばむだろうなと思う。言語は虚構の世界をつくりだし、あたかもそれを現実のように実在のように思うのが、われわれの日常意識だというわけだが、これを一般に人にはまったく理解させようとしないで語る。

 ラジニーシやエックハルト・トールを読んだほうが、よほど理解が進む。

 言語化の極みや古今東西の神秘思想の狩猟は価値あるものだろうけど、言葉がことさら難解である。

「そこで働くイマージュの大多数は、外界に実在する事物に裏打ちされている。この事物性の裏打ちがあまりぴったりしているので、我々は常々、外界の事物を知覚するに際して、感性的イマージュの介在を意識しない。特にイマージュを意識するためには、第二次的反省を必要とする。普通は、我々は自分が外的世界に直接触れていると思っている。つまり、我々の「……意識」は、実在する対象Xの無媒介的把握だ、と。

…実在する木を現に見ている限り、木「の意識」の成立に参与するイマージュの働きは気づかれない。木から目をそむけて、あるいは木の実在しない場所で、我々の意識に木が現象する時、はじめて我々はそこに働く木のイマージュに気付く。…外的世界に現在する木の事実性に支えられた木「の意識」の形成過程にも、イマージュはちゃんと働いているのだ」



 このことをよく言語化できたと思う。視覚に見えるものには、すでに言語の分別・区別がまとわりついているのだ。われわれはナマの現実を見ているのではなく、すでに言語で区別化されている木を見ているのだ。

 われわれの知覚世界というのは、言語アラヤ識、または元型からわき出されるもの、またはサピア=ウォーフ仮説のような言語の網の目をへた知覚世界しかすでに見ることができなくなっているのだ。

 哲学でも宗教でも、知覚論や認識論になると、知覚世界と観念世界の区別をおろそかにするように見えるのだが、ときに観念世界の虚妄を知覚世界の虚妄に勘違いしているのかと思うこともあったが、ここでは知覚世界の虚妄世界も語る。

 言語・思考・観念世界の虚構性、不実在性はすぐ手近なところにあり、これは案外気づきやすいほうだと思う。頭の中には物体や実在のようなものはひとつも存在しないのだ。だけど、ものを考えるとき、過去を思い出すとき、あたかも現実に存在するかのように思う。人はその妄念の実在化にかんたんにとりこまれて、それに気づかない。

 しかし知覚世界の実在性をマヤカシだと蹴とばすことは、ひじょうにむづかしく感じられる。井筒俊彦のこの一文は、知覚世界の言語性を指摘していて、驚きである。

 でもこの本は西洋哲学用語が頻出するためにあまりにも難解だと思う。理解できる人は限られているだろうし、理解させようともしていないのだろう。意味はしっかりと通っている繊細すぎる西洋哲学書であるが。

 観念や言語の束縛から逃れることは精神の解放をもたらす心理セラピーであると思う。だけどこの書は哲学書であって、そういう意図や収穫は得られない。まあ、禅や神秘思想の語っていることを言語的に近づけるだろうけど。


東洋哲学覚書 意識の形而上学―『大乗起信論』の哲学 (中公文庫)イスラーム哲学の原像 (岩波新書)意味の深みへ―東洋哲学の水位神秘哲学―ギリシアの部井筒俊彦: 言語の根源と哲学の発生 増補新版


関連記事
Comment
Trackback
title>
Trackback URL
Comment form









管理者にだけ表示を許可する






google adsense
全ての記事を表示する
ブックガイド特集
月別アーカイヴ
プロフィール

うえしん

Author:うえしん
世の中を分析し、知る楽しみを追究しています。興味あるものは人文書全般。ビジネス書、労働論、社会学、現代思想、経済学、心理学、精神世界、歴史学。。 そのときの興味にしたがって考えています。

twitterはこちら→ueshinzz

FC2カウンター

Page Top