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06 02
2017

幻想現実論再読

インド哲学に還れ――『インドの「一元論哲学」を読む』 宮元 啓一

4393133722インドの「一元論哲学」を読む
―シャンカラ『ウパデーシャサーハスリー』散文篇 (シリーズ・インド哲学への招待)

宮元 啓一
春秋社 2008-03

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 仏教は日本にしっかり定着しているが、その文脈におかれるべきインド哲学はほとんどかえりみられないようになっているようだ。梵我一如の思想は、世界との合一をわかりやすく伝えていると思うのだが、仏教はそれをおもにとりあげているわけではない。

 この本は「シリーズ インド哲学の招待」の中の一冊で、インド哲学を紹介する本が少ない中で貴重な本だ。

 シャンカラの『ウパデーシャ・サーハスリー』に注解をほどこす本になっており、韻文編の19章ではなく、散文篇の「弟子を目覚めさせる方法」の3章だけをとりあげている。

 あまり感銘も銘記もしたいものに出会った本といえず、弟子との論証の議論はあまりついていけなかった。

 宮本啓一は、ブラフマンを物体のようにイメージされているが、「ことば」や「言語空間」に他ならないといっている。エーテルや大気のような状態をイメージするのだが、たんに言葉にすぎないのだろうか。

 シャンカラであれ、インド哲学であれ、輪廻からの解脱を第一目的にしているのだが、インド人全般は輪廻や生まれ変わりを絶対の真実として信じているのだろうか。現代人は肉体が滅びれば終わりという物質感を当たり前のものとしてもっているのだが、その点でインド哲学への違和感はぬぐえない。

 シャンカラは苦痛は知覚対象と同じ場所にあり、認識主体はべつであり、認識主体は清浄であり、畏怖をもたないといっている。認識主体はなにものにも汚されず、どこにも属していないという。この峻別がむずかしい。

 「私」は、身体や感官と結びつかなければその存在さえも確立されないという考えは、西洋哲学の「私問題」にかならず出てくる未熟なレベルだという。

 私は、いかなるものとも結合せず、変化せず、不動であり、不滅であり、いかなるものの対象でもない私は、私に触れることもできない。この私というのは観念上の自我ではなくて、アートマンを指すのだろう。それを悟れという。

 シャンカラの不二一元論は、『大乗起信論』などのむかしから人は仏であるという本覚思想と同じであり、成立は後だというのだが、梵我一如の原点に戻ったと思うのだが。

 まあ、よく理解できていないし、全体的なインド思想史を知る必要があるようだ。


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