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05 20
2017

幻想現実論再読

仏教では根本目的が欠落していないか?――『インド哲学へのいざない』 前田 専学

4140841265インド哲学へのいざない
ヴェーダとウパニシャッド (NHKライブラリー)

前田 専学
NHK出版 2000-12-13

by G-Tools


 図書館ではじめて借りて読んだ。赤線が引けないので、スマホのクリア・スキャナーというアプリで、明記したい文章をなんどもパシャパシャ撮った。でも赤線引きたかった箇所をふくめ、全体の把握がむずかしいなあ。

 この本ではおもにヴェーダとウパニシャッドが紹介されていて、ヴェーダが神話であり、ウパニシャッドが哲学であることがわかった。

 バラモン教やインド哲学にひかれたのは、ブラフマンとアートマンの合一であり、「世界はわたしであり、わたしは世界である」という悟りの境地を、わかりやすいかたちで説いているからである。

 仏教になると人格道徳が表に聞こえてきたり、心を清浄にする瞑想が表に立っていたり、世界との合一という目的が見えにくかったりする。この根本目的を見失った仏教は、ほんらいの役割を果たせているのか。

「プルシャより上には、何ものも存在しない。それより繊細なものは何ものもなく、これより広大なものは何ものもなし。唯一者は木のごとく確乎として天にある。このプルシャによって万有は満たされている。
この神は、万物の顔・頭・頸である。万物の心の中にかくれ、万有に遍満する。それゆえにかれは一切処に存在するシヴァである。
プルシャは千の頭があり、千の眼があり、千の足があった。かれはあらゆる方角にわたって大地を覆い尽くして、なお十指の長さを残して立っていた(『リグ・ヴェーダ』)。



 ここではプルシャやシヴァとよばれているが、区別はよくわからないが、インドではブラフマンとよばれているものに相当するだろう。世界や宇宙はそれによって満たされており、あなたはそれである、というのがバラモン教やインド思想の根本思想である。

 そういう全体の方向から指したものがブラフマンであり、個人の側から指したものがアートマンになる。それは同一のものと説かれる。どちらから見ても、それは「ひとつの同じもの」と説かれる。

 わたしたちは個体であり、ひとつの身体をもった有限の存在であると認識するのはごく当たり前の感覚なのだが、インド思想では世界はひとつの身体、ブラフマンという神の身体であることが説かれる。日常の感覚ではまったく垣間見えない世界なのであるが、それはどのようにしたら認識できるようになるというのだろう?

「声なく、触覚もなく、形もなく、消滅することもなく、また味もなく、常住であり、また香りもないものであり、始めもなく、終わりもなく、大いなるもの(個人の本体)よりも高く、恒存するもの(宇宙の本体)、――それを思念して、死の神の口から解き放たれます」



 言葉の分節や境界のない世界を指し、それは不死であり、生もないということだろうか。思弁による世界の否定が、われわれを解放するということなのだろうか。

「それだからアートマンは「…ではない、…ではない」といわれる。それは把握され得ない。なんとなれば、それは把握されないからである。それは破壊され得ない。なんとなれば、それは破壊されないからである。それは無執着である。なんとなれば、執着しないからである。それは束縛されず、動揺することなく、害されることはない。
…じつに偉大な、不生であり、不老不死で、死んだことのなく、恐怖のないアートマンは、ブラフマンである。ブラフマンはじつに恐怖のないものである。このように知る人は、恐怖のないブラフマンとなる」



 把握されないもの、知覚されないもの、認識されないものと一体になることにより、人間は憂いのないものになる。そもそも把握できないものに、それはどうやって把握されるというのだろうか?

「これこそ心臓の内に存するアートマンである。それは米粒よりも、あるいは麦粒よりも、あるいは芥子粒よりも、あるいは黍粒よりも、あるいは黍粒の核よりもさらに繊細である。
しかし、また心臓の内に存するわがアートマンは、大地よりも大きく、虚空よりも大きく、天よりも大きく、これらのもろもろの世界よりも大きい」



 アートマンは極細であり、極大である。それは全宇宙にあまねく遍在するブラフマンであり、おまえはそれであると説かれる。

 インド思想では個体として存在するあり方は仮象であって、全宇宙は一体としてのブラフマンであると説かれる。そしてブラフマン、アートマンはひとつであるから対象をもたず、対象をもたないものは把握も、知覚もされないとする。ずいぶんとジレンマにおかれる説明の体系である。

 仏教思想ではこのブラフマンとアートマンの合一が、すっぽりと抜け落ちて伝わっていることが多いように感じられる。その意味で世界の一体を説くインド思想、バラモン教の知識をしっかりと保持することは大切だと思う。

 まったく咀嚼できない世界観なのであるが、世界との合一がじつにつたわりやすい世界観だと思う。


はじめてのインド哲学 (講談社現代新書)インド思想史 (岩波文庫)ウパニシャッド (講談社学術文庫)ウパデーシャ・サーハスリー―真実の自己の探求 (岩波文庫)バガヴァッド・ギーター (岩波文庫)

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Comment

仏教の根本と言う言葉について

はじめまして。こちらは定期的に読ませて頂いている書評ブログのひとつです。今日は始めてコメントさせて頂きます。

ブログ内で、
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仏教になると人格道徳が表に聞こえてきたり、心を清浄にする瞑想が表に立っていたり、世界との合一という目的が見えにくかったりする。この根本目的を見失った仏教は、ほんらいの役割を果たせているのか。
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とありますが、「世界との合一」が仏教の目的と言うお考えがどこから導かれたのか、よろしければ教えて頂きたいのですが。よろしくお願いします。

Re: 仏教の根本と言う言葉について

ケン・ウィルバーでしょうか。
ケン・ウィルバーは仏教より、もしかしてヒンドゥー教――ブラフマンやアートマンに強く影響をうけたのではないかと思い直していますが。

ぎゃくにルンバさんは、仏教の根本目的は何と見ていますか?

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第二の矢

仏教の唯一の目的は、第一の矢(出来事)を受けた後、第二の矢(妄想)を作って、自分自身に放たない(苦しめない)ようにすることだけだと思います。
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