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04 29
2017

幻想現実論再読

「見るもの」と「見られるもの」の分離――『意識のスペクトル』 ケン・ウィルバー

316n1KylMBL__SL500_BO1,204,203,200_意識のスペクトル 1 意識の進化
ケン・ウィルバー
春秋社 1985-05

by G-Tools


21zbHXe__HL__BO1,204,203,200_意識のスペクトル 2 意識の深化
ケン・ウィルバー
春秋社 1985-12

by G-Tools


 この本の後に出された『無境界』がコンパクト版であり、簡明版であり、本書はもっと詳細で、ところどころ難解であり、見出しも少なくて長い文章につかれるところもある。

 構成はおなじ順番で、悟りの世界が描かれ、つぎに自我と影、身体と環境といった狭められた自己の境界がのべられ、さいごに悟りの世界にもどってくる構成になっている。

 悟りの世界の説明や多くの引用にうちのめされる貴重な紹介書となっており、ケン・ウィルバーの論理を極めた文章にはじめてその世界の詳細を知りえた気持ちになれるのだが、実感や腑に落ちた感がともなわない欲求不満を感じてしまう本である。

「このように、われわれが知る世界が、世界そのものを見るために構築されるという事実からわれわれは逃れられない。だが、そのためにはまず、少なくても見る状態と見られる状態とに、世界そのものを分断しなければならないのは明白である」 スペンサー・ブラウン



 わたしたちは世界を見るためにまず世界を分断する。「見るもの」と「見られるもの」の分断をもたらして、はじめて世界は「知られるもの」となる。

「ページという別の感覚を知覚するわたし自身と呼ばれる感覚が、存在するわけなどないのだ! 一つの感覚が、あるだけなのである。そして、客観的にアプローチされたものを、われわれは「ページ」と呼び、主観的にアプローチされたものを「自己」と名づけている。実際に、それらが外部にあると感じる分だけ、われわれは幻想にとらわれている。つまり、すべての対象は幻想であり、頭の産物なのである」



 覚者のいう世界は、見るものと見られるものが分離されない一体の、ひとつながりの世界である。人は、そこに「見るわたし」「おこなうわたし」を導入して、世界を分断する。その間隙のスキ間がどんどん広がっていったのが、わたしたちの生であるというのである。

 恐怖や怒りをおぼえたとき、わたしたちはなんとかしなければならないとして、それを改善したり抑えようとする。しかしそれは失敗する。「体験」しかないところに、体験「者」を導入してしまって、新たな引き裂かれ抵抗する状態をつくり、もとの感情を長引かせてしまう。わたしたちは感情という体験を、ただ起こせるに任せ、終わるのに任せるしかないのである。わたしたちの認識の誤りは、こんなところにも顔をのぞかせる。

「では、わたしのなかにあって、眺めたり、見たり、読んだり、聞いたり、考えたりしているのは「何か」? 見ているのは、わたしの主観的な自我的自己であるはずがない。なぜなら、それは見られうるものだからだ。ファン・ボが述べているように、「知覚されるものは、知覚できないことを思い出してもらいたい」。換言すれば、わたしの「自己」は知覚されるゆえに、知覚している当体ではありえないのだ」



 見る目が目自体を見ることができないように、手が手をつかむことができないように、わたしたちは見ている主体をつかむことはできない。それこそが、真の主体だと覚者たちはいうのである。そしてそれは、絶対に見ることはできない。


 ケン・ウィルバーはこのような二元論の発生する源として、言語や共同幻想を「偉大なるフィルター」として名づけるのだが、ケン・ウィルバーの述べる意識のスペクトルはいささか「空間論的」であって、われわれはまずこの壮大な「空想の体系」というものを、事細かに詳細に知る尽くすべきなのではないかと思う。

 存在しない架空の構造物にわれわれは浸食され、支配され、現実のリアリティにいっさい触れられないようになっている。

 その空想や観念に逃げ込むように仕向ける「時間の発生」について、ケン・ウィルバーは秀逸な論考を発揮しており、時間を知ることにより、有限な生を知った人間は、安全をもとめた「観念」の世界にどんどん逃げ込むのである。

「つまり、第二の二元論の葛藤において、死を受け入れられない人間は、死ぬべき運命にある自らの有機体を捨て、「単なる」肉体より「確実」で傷つきにくいもの、すなわち観念に逃げこむのである。死を避ける人間は、無常の身体から逃れ、一見、死なないかに見える観念上の自分自身に同一化するのだ」



 記憶を現在から切り離し、現在と違った過去があると思い込むようになり、それを未来にも敷衍する。そしてあらわれる有限の生という空想によって死を恐れるようになる人間は、ますます観念や空想になかに逃げ込むようになる。空想が怖れさせて、ますます空想になかに逃げ込むといったからくりである。

「永遠とは果てしなくつづく時間的な持続ではなく、無時間性というヴィトゲンシュタインの指摘は、繰り返す価値がある。…永遠とは果てしなくつづく時間でも、一秒の断片でもない。むしろ、それは時間をもたず、まったき今に存在する日付も期間もない瞬間なのである。この現在の瞬間は、過去も未来も知らないために、それ自体無時間的である。そして、時間をもたないものは、永遠である」



 わたしたちは分断につぐ分断によって、有限で限られたものを恐れて、どんどん空想のなかに逃げ込むという構造があるのかもしれない。もし、分断のないひとつながりの世界だけがあるとしたら、わたしたちは恐れのない世界を体験できるかもしれない。分断を生み出すものは、想像力や空想である。存在しないものである。

「人間のアイデンティティはトータルな心身の有機体から、イメージとしての自分自身、自我へと移行するが、この自我は、皮肉にも、もっぱら過去を基盤とするため、まぎれもなく死んでいる。つまり、人間は、死の幻想を回避するために、自らを徐々に殺す羽目になるのである」




 ケン・ウィルバーや覚者のいうような分断も分離もない一体の世界をわたしは実感も体験もすることができず、「見るもの」と「見られるもの」の分離と、モノで隔絶された世界以外のものの見方ができない世界に閉じ込められている。

 ケン・ウィルバーのさししめす二元論のない世界のことをいくら読んでみても、はがゆい欲求不満が残るだけである。しかし、もしかしてそうかもしれないと思う地点にいる。空想と想像力がつくりだした恐ろしいほどの壮大なフィルターを、すこしは崩すことができてきたからだ。

 わたしたちは言語や空想というフィルターによって、知覚する世界すらゆがめて見ているのかもしれない。分断も分離もない世界を体験することができるだろうか。


無境界―自己成長のセラピー論存在することのシンプルな感覚実践インテグラル・ライフ―自己成長の設計図統合心理学への道―「知」の眼から「観想」の眼へインテグラル・スピリチュアリティ


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