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11 26
2016

主体性の剥奪

自分はどれだけつくられたものか――『なぜ、自分はこんな性格なのか?』 根本 橘夫

4569624766なぜ、自分はこんな性格なのか?
―性格形成分析入門

根本 橘夫
PHPエディターズグループ 2002-10

by G-Tools


 われわれは思う以上に意志や主体性を奪われて生きてきたのではないか、という疑問から毒親論、虐待論、教育論と読んできた気がする。どのように主体性のないものとして、「つくられてきたか」という捉えなおしをしてきたのだと思う。

 「なぜ、自分はこんな性格なのか?」という問いは、おそらくは同じ失敗をなんどもくりかえしたときに思い浮かぶ疑問ではないかと思う。上記のわたしの問いとはすこし異なる気がするが、性格がどのようにつくられたかと探る試みは同じようなものである。

 自分の性格に拘束されて、なぜ同じ失敗やあやまちをくりかえしてしまうのだろうと問うたとき、人は自分はどのようにかたちづくられてきたのかと問いはじめる。

 人は成人のころは自分ひとりで生きてきたように思いやすいと思うのだが、親や生育環境に適応してきた部分もかなり大きいだろう。親との対応が自分の性格だといえはしないだろうか。

 アダルトチルドレンの抑圧的な性格がひところ問題になったことがあったが、これは主体性を奪われて秩序に服従する性質を現代の多く人がつちかわれていることの気づきに相当するのではないかと思う。それは神経症的な個人だけの問題だったのだろうか。

 この本では性格類型による分析もおこなわれていて、たとえば分裂的性格とか、抑うつ的性格とか、強迫的性格とかいったおなじみのものである。クレッチュマーだったか。この分類に責任を帰すると、人の共通する行動は、その性格・気質に帰せられてしまい、社会的要因論が阻害されるように思うが。

 親の要求や願望に適応するかたちに育ったいつわりの自我を「代償的自我」と著者の根本橘夫はよんでいるが、この問題意識をもつ人は、わたしの問題意識と近いところを共有している人だと思う。エドワード・デシもモチベーション論でこだわったのは内発的自我であって、親や他人からの外発的なものは「いつわりの自己」として批判されている。

 ホルネイは不安への対応が性格をかたちづくるとしたが、この論理は身に覚えがある。「相手に好かれていれば、相手は攻撃してこないだろう」「自分を無にして相手の言うがままになっていれば、相手は攻撃しないだろう」「外界が怖いなら、外界と接しなければ安全である」「強ければ相手は攻撃してこないだろう、優秀であれば非難されないだろう」 不安から逃げてしがみつく論理って身に覚えがあるが、この目標はどこかで破たんするようなものに思える。

 自分の性格は親によってあらかたつくられたものか、それとも自分の資質にしたがって生まれたものか。その割合を問いたいのではなくて、その人からつくられた自分をどれだけ客観視できて、自分からひきはがすことができるかが、わたしの知りたいところあたりだと思う。

 人につくられた「代償的自我」を脱しながら、ほんとうの自分を見つけてゆくことが人間の成長だと思う。社会的に適応してゆくだけでは、それはまったく親のいいなりになった「いい子」と同じことで、自分の意志や主体性は抹殺されたままである。社会的適応を脱して、ほんとうの自分になってゆくこと、それこそが人生の求められる価値ではないかと思う。


「いい人に見られたい」症候群―代償的自己を生きる (文春新書)人を伸ばす力―内発と自律のすすめ自己分析「嫌いな自分」を隠そうとしてはいけない影の現象学 (講談社学術文庫)

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