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11 18
2016

書評 社会学

身体はだれのもの?――『「健康」の日本史』 北沢 一利

4582850685「健康」の日本史 (平凡社新書)
北沢 一利
平凡社 2000-12

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 問題意識が醸成されないままに先走りすぎて読んでも、実のなるものを得られない。健康をもっとおぞましきもの、恐ろしきものという認識でもないと、健康の誕生をとりあげた本は、なかなか深く追求しようという気にもならない。

 これは学校の勉強でもいえて、興味や問題意識のないものに関して記憶序列を競われるのだから、知識は味気のないゴムのように疎遠になって結果的に読書からも学問からも遠ざかる。それで知能序列を決められるのだから、学校は学問嫌いの製造所となるわけだ。

 この本では西洋の「健康」概念が輸入されて、それまでの江戸時代の「身」意識とどう違うのか、どのような要請からその概念がとりいれられていったのか、違いを鋭く峻別する目で精査されてゆく。

 だけど、わたしにはまだ問題意識が強く醸成されていなかったので、先走りすぎた本になってしまった。

「不健康は国に対してすまないし、社会的にも不道徳である。愛国心のない人であるといっても差し支えないと思う。自分の健康に注意して、絶対病気にかからないようにするのが国家社会に対しての義務である」



 ラジオ体操導入にさいしてこのように発言する人がいたのだが、国家に必要な健康、国家に必要な身体としての要請があらわれてくると、たちまち危険なフェーズに突入する。

 身体は、「だれのものか」。

 この身体が自分のものから、国家や社会のものになると自他未分化がおこり、どこまでも要請や強制が侵犯する関係がたちあがり、危険な領域に入ってゆくと思う。身体や命は自分のものではなく、国家や社会のもの。そのような認識がたちあがったとき、身体の外部強制性は、個人の意思や尊重をいともかんたんになぎ倒してゆく。その危険な領域を、健康概念は宿しているのだと思う。

 西洋式砲術が入ってきたとき、個人の誇りを大事にしてきた武士は、個人をなくし、集団の規律が大事な砲術的な体操をうけいれることができなかった。集団で同調する砲術や体操は、町人や農民のほうが適していた。そのために徴兵制において集団秩序を教える体操は適していたということである。

 近代は「身体」概念が輸入されるわけだが、それに先立つ江戸時代の「身」概念では、「気」をめぐらせたり、「気」を減らさないことが大事であった。だから散歩や労働は、苦痛や苦労以外のなにものでもなかった。「身体」概念は外から内から負担をかけることによって、筋肉や身体が鍛えられてゆくという考えをもっていた。そのような心身意識の違いがこの本で説かれている。

 身体が「国家のもの」とされたときの危機意識をもっと醸成しないと、響いてこない本かもしれない。戦争と国家の関連付けにおいて、健康概念は意味をなすのかもしれない。



健康帝国ナチス (草思社文庫)大日本「健康」帝国―あなたの身体は誰のものか (平凡社新書)健康ブームを読み解く (青弓社ライブラリー)健康ブームを問う (岩波新書)健康の社会史―養生、衛生から健康増進へ

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