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08 22
2016

主体性の剥奪

日本の理不尽な権力構造を支えるもの――『体罰はなぜなくならないのか』 藤井 誠二

4344983149体罰はなぜなくならないのか (幻冬舎新書)
藤井 誠二
幻冬舎 2013-07-28

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 2016年の現在時点で、体罰が大きな関心や問題と思われていることはまったくない。

 2012年12月におこった桜宮高校のバスケ部主将の体罰による自殺事件が騒がれ、女子柔道ナショナルチームの監督から体罰をうけていた告発がなされた一連の騒動は、いまではまったくなかったかのごとく沈静化している。

 この本はそんな影響下にあった2013年7月に出され、例のごとくマスコミから問題が忘れ去られるとともに、忘れられた一冊の本になっていったのだろう。事件のときだけ世間は騒ぎ、問題にする体質はどうにしかならないかと思う。あの騒動以来、この日本社会から体罰は一掃されたといえるのか。日常や通常な状態に問題こそを感じるべきなのだとつねづね思うのだが。

 子どもを死に追いやった体罰教師であっても、地域の保護者や世論は、その教師を守ろうとする風土があいかわらず残っている。保護者は、体罰を用いてでも子どもを強くしてくれた、勝たせてくれた、子どもに有利な結果をのこしてくれたと、体罰・暴言教師は「いい先生」になるのだ。

 体罰で子どもをなくした遺族がその教師を裁判で訴えたりすると、地域からの非難や批判が巻き起こることがあるそうである。自分の子どもが体罰によって、「殺された」としても、地域の声に協調できるというのだろうか。

 日本には、理不尽なものを受け入れて強くなるという精神文化をもっている。理不尽な体罰や暴言、過酷なトレーニング、厳しい約束に耐える力こそが、社会に出るための重要な訓練だと思われている。

 まるでブラック企業や理不尽な労使関係に耐えるための訓練かのようであり、日本は学校教育からして、徹底的に理不尽なブラック企業に貢献できる人材を量産しているかのようだ。学校教育も、ブラック企業も地つづきなのである。そして保護者もそれを擁護するなら、家庭にも虐待やブラックな権力関係がにじみだすというものである。

 生徒自身は、理不尽な体罰や暴言に耐え抜いた自分をほめ、耐え抜いたことがまちがいでなかったと、体罰教師をいい先生だったと郷愁するようになる。そしてその論理が逆転すると、耐えられずにやめていった仲間、トラウマになって苦しんでいる仲間、体罰で死んでしまった仲間にたいして、根性が足りなかった、我慢が足りなかったと、負け組の烙印を押す精神構造ができあがってしまうのだ。

 理不尽や体罰や暴言に耐えること、ブラックな労働環境に耐えてものいわず働きつづけること、こういった精神は一連なものとして、学校と企業間をつないでいる。上下関係の絶対化を理不尽なまでにからだに覚えさせられ、それに一言も文句も、疑問ももってはならない従順な企業戦士ができあがる。

 そしてそれを、親や保護者ものぞんでいるという日本の精神風土。

 体罰問題が騒がれて、またなにごともなく沈静化していった背景には、日本の権力構造、上下関係の浸透具合が、いかに深いものかを思い知らしめるものなのだろう。

 権力をふるうもの、ふるわれるものの共犯関係、保護者までそれを擁護する関係に、日本の権力構造の日常の潜み方が、垣間見えるというものだ。

 体罰や暴言をゆるしてしまう日本の教育現場に、日本の権力構造の深い根がしっかりと日常の隅々にまで浸透しているのだ。社会問題論として体罰の重要性が組み込まれていない現状こそ、疑問に思わなければならないものかもしれない。

 上の者が絶対的な権力をふるう現場こそ、われわれの権力関係の根底をになっているものではないのか。


学校と暴力: いじめ・体罰問題の本質 (平凡社新書)先生、殴らないで!―学校・スポーツの体罰・暴力を考える体罰の社会史 新装版しつけと体罰―子どもの内なる力を育てる道すじ「指導死」

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