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08 04
2016

主体性の剥奪

たんに外発的動機づけがいけない――『ほめるな』 伊藤 進

4061497774ほめるな (講談社現代新書)
伊藤 進
講談社 2005-03-17

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 ほめることのどこがよくないのかまったくわからないので、読んでみた。

 たんにモチベーション理論の外発的動機づけで方向づけることになるから、内発的動機が殺されてしまうということだったので、拍子抜けした。

 著者はそれ自体を楽しむ自己目的的活動を「アモーレ情熱」といい、それにたいして結果やお金などの報酬を目的にする活動を「道具的活動」と批判して、それはそれでまったく首肯できる。ほめる教育はそのアモ-レ情熱を阻害するというのである。

 また、ほめる教育を受けつづけると、他者からどう評価されるかが、自分が生きてゆくうえでの中心課題になる危険も批判している。それがなぜいけないのか、まったくわからない人もいるかもしれないが。

 人生は結果のみを求めることが当たり前すぎて疑うことも知らない人が、この日本にはたくさんいるかもしれない。結果など関係なしにそれ自体を楽しめる行動や活動をもてることが、人の幸不幸を決める。社会や教育はこのことをちゃんと届けられているでしょうか。

 子どもは品評会の農作物のようだと著者はある人の言葉を引く。子どもはほめられようが、ほめられまいが、そんなことは関係なく大事な存在。人をひとりの人間として、あるがままに尊重すること。そしてそれを肯定できること。それがマニュアル教育に頼らない人との創造的な関係を生み出すのだと著者はいう。

 著者は小学生のころから自己主張がはげしく、高校のときには反抗的だとして退学勧告もうけたことがあるそうだ。顔写真からもうかがわれる押しの強さがつたわってきそうなお顔をしているが、自分の自己主張と他者尊重の精神を両立できたのだろうか。

 文中にバスで歌う女子中学に注意する公共マナーの話が出てくるが、団塊世代の方はどうも公憤と私憤がごっちゃになっているきらいがあるように思う。公憤と私憤がべったりくっついていて、分離されていない。公共の場で知らない人に注意されるのは、組織での管理外の話なので、注意されたものにはなんの利害もメリットもない関係である。それを公共マナーの話にされても。運営会社くらいしか注意する権限はないと思うのだが。公の著作に公共マナーの私憤がまぎれこむのはいつも性格のゆがみを感じる。


ほめると子どもはダメになる (新潮新書)アドラーに学ぶ部下育成の心理学「ほめない子育て」で子どもは伸びるほめる力: 「楽しく生きる人」はここがちがう (単行本)子どもが伸びる ほめる子育て: データと実例が教えるツボ (ちくま新書)

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