HOME   >>  主体性の剥奪  >>  過剰と強迫のエスカレート――『日本人のしつけは衰退したか』 広田 照幸
06 27
2016

主体性の剥奪

過剰と強迫のエスカレート――『日本人のしつけは衰退したか』 広田 照幸

4061494481日本人のしつけは衰退したか
(講談社現代新書)

広田 照幸
講談社 1999-04-15

by G-Tools


 99年に出た本だから、とうぜんながら酒鬼薔薇事件などの少年犯罪が世をにぎわせていたころだから、しつけの衰退を憂え、もっと厳しくしつけをという世の風潮に否をつきつけた本ということになる。

 いまは親がしつけや教育に熱心になりすぎて、ぎゃくに「わが子に手をかけすぎないように」とくりかえし注意しなければならないところにきている、というのが著者の主張である。過剰な母子密着や「逃げ場のない牢獄」が問題になっていると。

 本屋の育児本とか見ると、個人的な主張ばかりがやさしくのべられ、データや客観性のとぼしい個人的かたよりのある本が多いように見受けられる。こういう客観的な子育てしつけの風潮や傾向はどこにきているのかを全体的に見れる本はとても重要だと思う。

 この本は理想化されがちな村のしつけから、高度成長期をへた都市住民のしつけや教育、げんざいの家族教育主体の時代まで、ざっとさかのぼっていて、ひじょうに参考になる。

 旧態依然とした村の暮らしから、都市に働くことに出ることで立身出世が夢見れた高度成長期に学校や学歴にどんなに期待されたのかがわかって胸が熱くなる。このころのしつけ論は、遅れた村のしつけや教育を、都市高学歴者が上から批判するという図式でなされるものが多かったようである。

 80年代になると学校の集団管理は時代遅れになり、個人化や個別化、主体化をになえない学校は不要で抑圧的なものとうつるようになっていった。いまは教育する家族のコーディネイトにたえられるような学校が求められ、従属するようになっているといわれている。

 90年代の犯罪少年ブームは、非行や犯罪は親の責任にあるといって、親にもっと過剰で強迫的なしつけや教育をうながすようになったのではないだろうか。ゆるめないといけない方向の上に、ますます縛りつける方向にすすむとは皮肉なことである。

 高学歴・高階層の親ほどしつけに厳しく、体罰を用いるという結果が出ている。子どもには自主性を尊重しておきながら、厳しくしつけようとする矛盾をひきおこしている。

 しつけとか教育というのは、支配者と奴隷の関係をつくりだすことなのであって、あんなに反発したはずの封建的な関係を期せずして生み出してしまう。皮肉なものである、理想に前のめりになったものは、自分たちの高圧的な関係が見えない。

 しつけや子育ては正解やただしい唯一の答えなどない、なにがまちがいかもわからず、結果がどう転ぶかもわからない不確実なものであると思う。どの要因や影響によって、幸不幸に転ぶかもわからない。まあ、人間関係やこの世というのは、そういうものである。自分も子供も追いつめない姿勢をつちかいたいものである。


完璧志向が子どもをつぶす (ちくま新書)文庫 お母さんはしつけをしないで (草思社文庫)ふにゃふにゃになった日本人―しつけを忘れた父親と甘やかすだけの母親人間形成の日米比較―かくれたカリキュラム (中公新書)イギリスのいい子日本のいい子―自己主張とがまんの教育学 (中公新書)

関連記事
Comment
Trackback
title>
Trackback URL
Comment form









管理者にだけ表示を許可する






google adsense
全ての記事を表示する
ブックガイド特集
月別アーカイヴ
プロフィール

うえしん

Author:うえしん
世の中を分析し、知る楽しみを追究しています。興味あるものは人文書全般。ビジネス書、労働論、社会学、現代思想、経済学、心理学、精神世界、歴史学。。 そのときの興味にしたがって考えています。

twitterはこちら→ueshinzz

FC2カウンター

Page Top