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05 02
2016

主体性の剥奪

教えることが自発性を破壊する――『教えるな!』 戸田 忠雄

4140883510教えるな!
―できる子に育てる5つの極意 (NHK出版新書 351)

戸田 忠雄
NHK出版 2011-06-08

by G-Tools


 教えることはみずから学びたい意欲をつぶすことである。知りたいという飢餓状態があってはじめて、教える効果があがる。「自分を必要としないように教えるのが、よい先生」といっているように、教師は自分の役割を否定してこそ価値のある存在になる。

 外発と内発というテーマで本を探しているが、教えること、育てることにもそういうテーマはとうぜんかかわってきて、このような教育論の本も読んでみた。

 やる気を出させること、教えることが、本人から自発性、自主性を奪ってゆき、創造性を破壊してゆくパラドックスに思いを馳せないわけにはいかない。

 自発性、自主性を育てられない労働や教育はいずれその役割は失敗に終わる。すべて他人事であり、自分事でないそれは自己を疎外し、かたちだけの魂のない結果をもたらすだけである。

 学校が教えることにより、みんな学問が嫌いになり、活字本を読まなくなり、アニメやゲーム、お笑いに情熱を傾ける。強制することはいちばん学んでほしいことから人を嫌悪の感でそれらから去ることを行動づけるもののようである。ほんとうに学んでほしいことは、必要なら自分からとりにいくものではないのか。

 学校は社会や企業がその人の能力を測る「測定器」でしかないのだから、知識は本人から疎外されてゆき、受験が終われば忘れられる他人事の記号になり、本人の人生の役に立たない測定のための道具に終わる。強制された教育にもたらされた結果はそれでしかなかったのではないか。

 この本は教えるな!という割には、ラディカルな批判になっているわけではなくて、やはり予定調和な無難な教師らしい内容で止まっていると思う。やっぱり教師は教師らしい優等生のような器用な学びがいのある話はするのだが、魂には届かない気がする。

 偏りや歪み、マニアックからくる偏執的な執念がちっとも感じられない。教えられることに対する怨念的な批判がちっともない、あたりまえのことだけど。教師が書いた教えるな!という本にそれを期待するのがまちがっているのだけど。

 教えることの弊害や破壊をもっとラディカルに追究してもらいたいものだ。

「質問をしにくい雰囲気をつくるということは、学びにとってもっとも重要な行為、思考の根源にある「問うこと」を封じるということです。それは学びの自殺行為に等しい。自ら問いをもてない者は、何事にも疑問をもち自分で考えることはできないし、十分な読解力も身につきません」



 教えることはこの自発的な知識欲を破壊してゆくことだと思う。そしてお客さんのように答えだけを口を開けて待っているずっと待っている存在に変えてしまう。もう自ら学ぶことはしなくなる。

 教育がしたのはそういうことだったと思う。そもそも教育は生徒の能力の測定器だったので、知識を人生に活かす技能として教えられたわけではないのだろう。

 外発と内発というテーマで本を読んでいるが、強制がいかに知識や労働を破壊してゆくか。それを知ることにより、強制的な教育観や労働観で育ってきたわれわれがいかに自身を疎外してきたことかに気づく。そのことによってまた、つまらない、生き生きとしない社会を生み出し、人生を送らされてきたことか。

 強制された教育や労働は結果的につまらない活力のない社会を生み、どんどん衰退と退行を余儀なくさせられるのではないか。工業社会の強制的教育観、強制的労働観は、創造社会のハザマにおいて、どんどん悪弊になるのではないかと思う。


脱学校の社会 (現代社会科学叢書)上司は仕事を教えるな! (PHPビジネス新書)社員が自主的に育つスゴい仕組み独学のすすめ (ちくま文庫)独学の精神 (ちくま新書)

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