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03 21
2016

TV評

『わたしを離さないで』はドラマ史上に残る一級の名作だ




 ドラマ『わたしは離さないで』は視聴率6%~7%台の低視聴率だったが、わたしはこれはこれまでのドラマ史上にない名作だと思っている。

 臓器提供や不気味な学園など重苦しくなる雰囲気に視聴者がついていけなかっただけで、よくもこんな重くも深いテーマのドラマをお茶の間に流したものだと思っている。視聴率が低いのは、とうぜんである。

 これは臓器提供やクローン人間のSF的な話として、わたしたちの身近な話でもなく、わたしたちと関わりのない悲劇な人たちの物語として突き放すことができれば、私たちに救いがあったかもしれない。

 しかし、これはまさにわたしたちがいつか死すべき存在、限られた生の時間を生きなければならないという、わたしたち自身の物語である。

 このドラマではグロテスクに臓器提供によって人生が奪われてしまう、だれかに命をはく奪されてしまうという運命のクローンを描いて、わたしたちとは違う存在の話だと思うかもしれないが、わたしたち自身もいずれ遠からず人生や命を奪われてしまうのだ。

 このドラマはわたしたちの有限な人生、限られた短さの人生を語ったものにほかならない。

 このドラマは「メメントモリ」、「死を思え」をメッセージにした深刻で重い物語なのである。視聴者が目を背けたがったのは故なきことでない。


限られた短い人生の生きてゆく価値

 このドラマは限られた短い人生で生きる価値、生きてゆく意味を問うた作品である。

 だれかに人生や命を奪われてしまうはかない短い生、だけどそのなかでどうやって人生の価値や意味を見つけるか、生きている希望や夢をもちつづけるかという話である。物語のすべてのパーツがそのテーマに向かって語られている。


人生を慰めるもの、性愛

 わたし的にはいちばん衝撃だった回は、第四話のコテージ編で、限られた人生を有意義にすごすのにはなにがあるかと問われた回である。人生のすぐ先が限られていたら、人は人生の時間をなにに費やそうとするだろうか。

 コテージの人たちは限られた人生を有意義にすごすために、「昼間からサカりのついたブタ」のようにとあからさまに非難されたように、性愛やセックスにふけっている。有限の人生を慰めるものは、「わたしとあなたしかこの世界からいなくなる」ようなセックス、性愛だけなのだろうか。

 さいしょ、綾瀬はるかが演じる恭子はそういったコテージの連中を軽蔑していた。しかし真美(まなみ・中井ノエミ)の運動に賭けている姿、好きなトモ(三浦春馬)を美和(水川あさみ)にとられた空虚さから、「ひとりでは嫌だ」といって、ほかの男に抱かれる。

 限られた短い人生にとって有意義で価値あるものは、セックスしかないのだろうか。恭子はそういった性衝動に支配された人生をその後送ることになるのである。「それしかない」といって。


芸術至上の学園の意味

 臓器提供者のたいていは、そういった性愛にふける日々を過ごす。ほかに慰めるものはないのだ。

 人生が限られたもの、いつか命を奪われるのであったら、人生をどうすれば価値ある生を生きられるだろうか。

 死を前にしたとき、人はなにに慰めと意味を見いだせるだろうか。

 ずっとシニカルであった真美は、ホワイトマンションで芸術や社会研究、権利獲得の運動に賭ける人たちを、恭子に紹介する。これはわれわれが人生を有意義に、価値ある生き方をしようという向き合い方と同じことである。

 しかし死が目の前につきつけられたとき、はたしてわれわれはどのような慰めや意味を見いだせるだろうか。

 恭子たちの育った陽光学苑は不気味で、芸術を至高なものとして教え、洗脳的な学園として描かれていた。しかし美和が最期の提供のとき、恭子は美和に偽善だと思われていた「わたしたちは天使である」という言葉を投げかけるのである。

 人生になんの慰めも救いを見いだせないとき、そういった偽善的で、洗脳的な言葉と思われるものであっても、わずかにすがれる藁になるのである。偽善とわかっていても、限られた人生の価値は、そういった言葉しかないというニヒルスティックな絶望が投げかけられる。

 魂を磨く芸術や、たとえ偽善的な言葉であっても、われわれの有限な人生にわずかな救い、光をさしのべるとこの物語ではいっているのではないだろうか。

 
大切なものを奪った美和の意味

 恭子の大切なもの、大好きだったトモを奪う美和との三角関係がこのドラマの主題であるかのように大きくあつかわれる。

 恭子の大切なものが奪われる悲しさ、愛する人を奪われる悲しさ、憎しみといったものは、そのまま愛する人の命を失ってしまう悲しみにも通じる。そういった意味で、美和は恭子の前に奪う存在の象徴として描かれたのだろうか。

 真美は、恭子に「このままいつまでも支配されたままなのか」と問いかける。真美は、支配されたもの、臓器提供という運命に縛りつける存在や社会と闘おうとした。それは恭子の美和に奪われた大切なものと、通じるものとして同時進行に描かれる。

 支配されたもの、臓器提供者の人生を奪うものの共通項として、美和は描かれるところがある。だけど、美和は支配する社会やシステムと同じような不気味で強権的な力だけなのだろうか。

 美和と恭子の邂逅のとき、美和は恭子が怒ったときに、わかりあえるほんとうの親友になれると思っていたといった。大切なもの奪うことによって、恭子の怒りにふれたとき、ほんとうの絆が築かれると美和はいうのである。

 だけど美和は女同士の比べる心、人と比較し合う心が象徴されているのではと思えた。美和は恭子に憧れる、勝ち負けを競う間柄である。恭子に負けたくない。そのために恭子の大切なものを手に入れることによって、憧れの恭子になりえると思った。

 女同士の張り合う心、競争し合う心といったものがじゃまをするために、われわれは短い人生をムダに費やしてしまうのではないかといったメッセージが、語られているように思えた。

 人はほとんどほかの人と変わりはしないものである。それでもほんのわずかの違いにうれしがったり、嫉妬したり、憎しみ合ったりして、人生の多くの時間を奪われてしまう。

 自分ではない他人になりたがったり、比較することで、人生をムダにすごすな、美和の行動はそういっているように思えた。


限られた短い人生の価値と夢

 このドラマは臓器提供によって人生を奪われる、命をとうとつに断たれてしまうというグロテスクなクローン人間を描くことによって、わたしたち自身もいずれ死すべき存在として、どんな価値ある人生や希望があるのかといった深いテーマを提起していた。

 恭子が好きだったトモはたえず希望や夢をあきらめない少年だった。トモは希望や夢を象徴した存在だったのである。

 恭子はそんな希望を美和に奪われ、すっかり心を閉ざし、夢や希望を失いかけていた。「心なんていらない」とまで追いつめられた。

 だけど、それでも人生になにか一筋の光を見出すしかない、といったものが人生ではないだろうか。このドラマではそういった「なにか」がいくつも提示されていた。

 友と愛し合う証拠を見せれば猶予を与えられるという救いも、じっさいにはなかった。だけど、友と恭子には愛し合うふたりがいっしょになるという希望、夢はとっくに叶っていたのである。


 このドラマでいくどもいわれるメイン・メッセージというのは、

 「生まれてきてよかったと思えるものを見つけて」

ということではないだろうか。

 
 これはドラマの臓器提供者だけにつきつけられた言葉ではない。短い、有限な人生を生きるわれわれ自身にも投げかけられ言葉なのである。

 あなたも、生まれてきてよかったと思えるものをなにか見つけてください。





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