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03 07
2016

主体性の剥奪

巨大な「やらされ感」と自発性

 学校から卒業して企業で働くということは、企業から押しつけられた仕事を「やらされ」、ロボットのように業務に従事することだと思っていた。

 だからできるだけ働かないこと、働くならできるだけ労働の重圧から離れ、労働から解放されることが、自分のめざすべきものだと思っていた。

 企業社会は巨大な「やらされ感」の圧力にしか思えなかったし、ニートやフリーターになる人には同じような思いがあるのではないだろうか。やりたくないことをむりやりやらされて、自分から人生や時間を奪ってゆく巨大な官僚機構。

 このような表象というのは、学校や勉強で叩きこまれ、その先の企業社会でももっと悲惨な圧力や強制として、自分の身の上に迫ってくると思われていた。

 学校の勉強によって、やらされ感とその忌避感は習い性になり、遊びや趣味は楽しいものなのに、勉強や学校はむりやりやさられる苦痛でしかない。その捉え方は企業にもひきつづき引きつがれ、いかに働かずにラクをするか、そこから逃げるかが、自分を生かす道になる。


 ■趣味の自発性

 それにたいして、趣味や遊びはやらされ感でやるものではなく、自分からやる楽しくてうれしいものである。

 わたしたちは学校から習わされるものを嫌いになり、読書を押しつけられて読書が嫌いになり、マンガや映画は自発的に楽しむ。勉強は嫌いになり、ゲームや遊びに熱中する。体育教育で体育が嫌いになり、運動が楽しい体に心地よいものだと思いもしなくなる。

 やらされるものはほとんど嫌いになり、自分から自発的にやるものを楽しくて時間を忘れ、その時間がとれることだけを楽しみにする。

 小説や学問は、マンガや映画とほとんど変わらないものである。違いは活字か、画像や映像の違いと、それから学校で勉強させられたか、すすめられなかっただけの違いである。もし学校から勉強させられなかったら、自分から自発的にマンガや映画のように楽しんでいたかもしれない。

 わたしも20歳くらいまでほとんど本を読まなかったが、自分からすすんで疑問や関心をもち、それを追究するようになったら、遊びや娯楽の次元でそれを楽しめることを知った。自発的にやれば、勉強も学問も娯楽や遊びなのである。宝探しになるのである。

 だけど、押しつけられ、やらされ感を抱いてそこから抜け出せなかった人は、ずっとその分野に近づこうとしないだろう。

 やらされ感というのは、人が教え、身につけさせようとする善意や好意とはまったく逆に、人にやらされ感と強制感を生み出し、そのスキルや知識を拒絶させるもののようだ。


企業のやらされ感

 ネットが拡大するにつれ、ブラック企業や長時間労働、社畜へのバッシングは強くなっていった。わたしたちの中には、やらされ感からの忌避感と逃避感が強く根づいているためではないだろうか。

 仕事とは喜んでやりがいや生きがいのためにおこなわれるものだと思われていない。むりやり、いやいややらされて、その引き換えに賃金をいただく我慢料と思われている。

 わたしたちは巨大な企業社会のしくみのなかで与えられ、押しつけられた仕事をするものだと思っている。やらされ感と強制のなかで、仕事をやるものだと思っている。そこには趣味や遊びのような自発性や楽しみはまったくない。

 いかに仕事から逃れ、ラクをし、手抜きをするかが、自分を生かす道になる。勉強と遊びの対比は、ずっとつづいているのである。

 わたしたちは消費や娯楽だけに楽しみを求める。そこには自発的に、自由に自分が楽しむ娯楽性とうれしさがある。

 消費者やお客のように楽しみや喜びを買える立場でずっといたいと思う。労働からはできるだけ離れ、あるいは軽減されたいと思う。それがニートやフリーターになり、ブラック企業や社畜への批判、女性では専業主婦願望になるのではないだろうか。


 ■お客さんとしてのわれわれ

 わたしたちは学校で勉強や学ぶべき課題を与えられ、お客や消費者のような立場で、知識に接する。

 そのことによって、学問や世間は他人事や自分と関係のない記号になる。お客の立場で与えられるものは、当事者のような気持ちを生まないのである。

 自発的におこなうものは、それにたいして自ら学び、もっと吸収したいと思うから、それは自分のことのように、当事者のように思うことができる。だがお客さんのように知識や学問を与えられると、それは自分と関係のない他人事・記号として、素知らぬものとなる。

 やらされ感は、他人事のお客のように、自分を世界から切り離してしまうのである。

 会社から仕事を与えられれば、それはやらされ感とともに他人事や無関心なものになり、当事者や自発者としての距離や熱さを生まない。与えられるものは、その事柄から切り離されたお客さん感を生み出してしまう。

 ゼロからつくりだすこと、みずからが自発的につくりだすものだけが当事者や自分のことのように思うことができる。自分の興味や関心から探り出された知識や映画、マンガはどこまでも自分の身の上に迫る自分事のように思える。

 だけど与えられたもの、やらされ感で動かされるものは、すべて他人事、無関心なもの、自分と関係のないことである。

 それでやらされ感で生きる毎日は楽しさからどんどん切り離されてゆき、人生はつまらないものなり、人生から疎外されているように思う。

 楽しさを与えてくれるのは週末の娯楽や遊び、消費だけである。週末の楽しみのためだけに、平日の5日間はやらされ感と他人事の仕事に埋没されるのである。


 ■やらされ感からどう抜け出すか

 やらされ感から抜け出すことはむずかしいことである。自発性を発揮すれば、反抗しているものにたいして、屈服、みずから利用されてゆくことになるからだ。

 やらされているものからの寝返りや宗派変えは容易なものではない。やらされたくないからこそ、やらされ感を抱くのである。

 それに自発性や娯楽性を見いだせるようになればいいのだが、抵抗することこそがアイデンティティになっているような人たちの改宗はかんたんなものではないだろう。

 与えられたものに入ってゆく仕組みがあまりにも大きくなりすぎた。大企業や福祉制度のしくみがますますわれわれを他人事、与えられたやらされるもの感を強めてゆくのである。

 自発性や内発的動機づけといったものは、既成の勢力に入ってゆけば発揮できにくいものかもしれない。そこでいかに自発性、自主性を取り戻せる範囲を確保できるかが大きなカギになる。

 起業や自営にはそういった自発性・自主性を大きく発揮できる要素が強い。ゼロからつくりだす、当事者として切り開いてゆくものこそ、当事者意識や自発性を見いだせるものである。ネットではそういったフロンティアを見つけやすいではないだろうか。

 自発性・自主性こそがカギである。やらされ感から抜け出すには、そういったものからはじめるのがいい。やらされ感に見えていたものでも、そのきっかけを見つけると自分事のように楽しめる道筋を見いだせる。

 好きなものを仕事にしたいという人は増えた。やらされ感ではない、自発性や自主性を発揮できるからだ。消費者として楽しめるものを仕事にすれば、そこには遊びや娯楽の要素をもちこめる。自発性を見いだせる大きな道筋である。

 そうでないばあいは、やらされ感のなかにいかに自主性の隙間を見つけてゆくかということになるだろうし、仕事から離れて休日や無所属の時間を増やしてゆくということになるだろうか。

 やらされ感で灰色に見えてまったく関心をひかないものでも、そこに自発性や自主性を見出すことができれば、それへの見方は大きく変わるかもしれない。

 自発性を見出したとき、この世界は自分のためのものになる。


このテーマってモチベーション論?

「やらされ感」から脱出して自由に働く54の方法あなたのチームがうまくいかないのは、結局、部下に「やらされ感」を植えつけているからだ。モチベーション3.0 持続する「やる気!」をいかに引き出すか (講談社+α文庫)日本企業の社員は、なぜこんなにもモチベーションが低いのか?人を伸ばす力―内発と自律のすすめ

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