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01 13
2016

労働論・フリーター・ニート論

「普通になれない」を和らげる考え方

 「普通になれない」アラサー女子を描いたドラマ『ダメな私に恋してください』が放送された。


 「大人になったら普通に恋して仕事して

 普通に彼氏ができて 

 普通に結婚できると思っていたのに 

 普通がこんなに難しいなんて」


 と深田恭子扮するダメアラサー女子が嘆くシーンがある。

 アラサー女子はそこまで「普通感」から逸脱している気持ちをいだいているのかとちょっと驚いた。

 非正規や晩婚、貧困をいちばん直撃しているのはたしかに女性と思われるので、この「普通感」からの脱落はアラサー女子あたりにひじょうに強いのかもしれない。

 男性も非正規や低収入、不安定雇用で、「普通に」結婚して家庭をもち、子どもをもつというひと昔前ではあたりまえだった「普通」を生きられなくなっている。

 若者は「普通」に生きられない辛さを味わっているのだろう。

 不幸なのは、「普通」に生きるのが当たり前だった親世代が、環境の変わった子どもたちにあいかわらず「普通の人生」を送ってほしい、送るのが当たり前だと思っていることだ。

 環境が普通に生きることを許してくれないのに、親世代は普通に生きることを要求してくる。ときには当人自身の責任や能力不足を責めているに思える。世代に断層が走っているのである。


 正社員というのは、ひと昔前のみんなが国や企業に守られていた「社会主義」の時代を生きていたといえる。

 それにたいして非正規というのは、弱肉強食でどんどん突き落とされる「資本主義」の時代を生きているといえる。

 普通というのは、企業や国に守られた「社会主義」の時代を郷愁しているのである。


 世界的に自殺率が多いのはかつての社会主義が崩壊した東欧諸国も、日本のように多い。国民すべてが守られた国営企業で生きられた人生をもう手にできなくなっており、そこに失意や絶望が襲うのだろう。日本と似ているのである。

 日本も1998年ころに一気に中高年の自殺が増えて年間三万人の自殺者数に達した。大企業が軒のみ倒れ、これまでの社会主義的、大企業福祉がいっきに崩壊した境目の年である。「普通に生きられない」中高年が絶望したのである。


 「普通になれない」というのは、社会主義的な、守られた生き方ができないということである。

 しかし社会主義は世界中から多く排除され、ソ連だって崩壊し、東欧諸国もつぎつぎと社会主義を手放した。もう社会主義は世界中から信奉されなくなった制度・思想なのである。

 なのに、なぜわれわれは社会主義的思想にしがみつくのだろうか。


 われわれの「普通になれない」を癒す考え方というのは、社会主義体制の批判やおおくの欠点ではないだろうか。


 バブル時代までの若者は「決められた人生のコース」にうんざりしていた。社会主義の人生は人を社会の歯車のように決められた人生を強要した。だから若者はみずからがフリーターになったり、世界を放浪しようとしたのである。

 それまでの人たちは、「普通に生きること」を不満に思い、絶望していたのである。「終わりなき日常」がいつまでもつづいてゆくことを心の底から恐れた。

 社会主義というのは、社会から「普通の決められた人生コース」を押しつけられることである。いい大学にいって、いい会社に入って、卒もなく定年まで勤めあげる。そんな人生はバブルまでの若者にはもう嫌悪をもよおすものになっていた。

 「普通ではない」生き方を若者はのぞんでいたのである。それがいまではすっかり「普通に生きられない」ことを嘆いているようになっている。

 社会主義というのは保障を得られる代わりに「自由」をひきわたす制度のことである。保障というのは、自由を売り払う代償として得られる人生である。

 バブルまでの若者はそういう人生を忌み嫌い、そして世界中では社会主義は経済的に豊かにも、自由にもなれないと放棄されていったのである。

 いわば、現在はそれが逆転して、自由に生きられる代わりに、保障や安定という「普通」を得られない時代になったといえる。

 つまり、「自由」は手にしている。だけど、保障が得られた時代を郷愁するあまり、自由がミジメで転落したものだと思われるようになっている。

 わたしたちはバブル期までの固まった生き方より自由に選択できる時代を生きているはずである。それなのに転落と普通に生きられない喪失感だけ感じている。


 社会主義的な生き方は窮屈さや人生の自由を奪うものではなかったのか。経済的な豊かさや成長を得られない経済制度ではなかったのではないか。だからこそ、社会主義は世界中から捨てられた。われわれはなにを郷愁しているのだろう。

 終わりの近かった社会主義圏の国は国営企業に守られて働く気をなくし、画一的で時代遅れな国産車が走り、ときには国民服という選べない服を国民が着て、店にはモノがいきわたらなくなり、配給待ちに行列をなす末期の体裁を呈していた。

 われわれはあのような時代を郷愁するのだろうか。

 守られて安定していると思われる大企業だって、遅かれ早かれ、いつかこういう内実をさらしてゆくことになると思う。

 われわれは突き落とされ、転落している代わりに、自由で創造的で多様な生き方のできる時代を生きているのではないだろうか。実験できる時代なのではないだろうか。

 社会主義が喪われたことを嘆くのは、お門違いに思える。



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