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12 13
2015

TV評

掟上今日子の記憶がないのは不幸なのか?

 掟上今日子の備忘録 DVD-BOX

一日で記憶をなくす探偵

 ドラマの『掟上今日子の備忘録』を見ていました。一日で記憶をなくしてしまう忘却探偵の軽いノリの推理探偵モノでした。

 この一日で記憶をなくしてしまうという設定は、「記憶はわたしなのか?」という問いもふくむ、意味深い哲学的問いを投げかけるテーマをあたえていたと思う。

 一日で記憶をなくしてしまえば、「わたしはだれなのか」という問いに毎日向かい合わなければならない。ニセの記憶を『トータル・リコール』のように植えこまれば、だれか違う他人を自分と思ってしまうことだって起こる。最終回で掟上今日子はニセの記憶を植え込まれて、男の妻として家庭に収まりそうになる。

 記憶は大事なもので、わたしとはだれなのかという継続をつなげる、人間にとってなくてはならないものである。『掟上今日子の備忘録』をそういうことを提示しようとしたドラマ・小説なのだと思うが、その深いテーマに気づかせてくれる展開にはなかなかつなげてくれなかったドラマにも思えたが。

 一日で記憶をなくしてしまう掟上今日子はいっぱんの人にとっては不幸な人間に思える。


記憶をなくすことは不幸だけなのか

 だけどきのうの記憶をもたないことは幸福なことでもある。不幸やつらい出来事、いやな思い出を一日でリセット、ないものにしてしまうことができるからだ。

 ドラマでは「今日という一日をたいせつにすること」がメッセージとして語られていた。

 仏教やニューエイジ系の知識では、そういった過去をつぎつぎと手放してゆくことを薦めている。デール・カーネギーの鬱からの解放を説いた『道は開ける』のような本だって、過去を鉄のシャッターで閉ざすことが、幸福の道だと説いている。

 過去の記憶がないことが幸福なことだって、ありうるのである。というか、過去は不幸のかたまりと継続につなげてしまうことが多いのではないか。

 物語の展開のピエロであったような隠館厄介という男は、過去の不運に見舞われたという「記憶」をもちつづけることによって、不幸を背負いつづける存在である。掟上のようにきのうの記憶を一日でなくしておれば、かれは不運や厄運ばかりにおそわれつづける「不幸な存在」だっただろうか。


過去は「どこ」にあるのか?

 記憶の問題が問いかけるのはそれだけではない。じつはもっと大きな意味が隠されている。

 わたしたちは記憶はあたかも「実在」のもののように、目の前に存在する「実体」のものにあつかっている。

 過去にひどいことをされれば、絶対になにか報復や復讐をしてやらなければならないと思っているし、過去のつらい出来事や不幸なことは、いま、ずっと思い出して悶絶して、涙を流し、ずっと悲しい気持ちになったりする。過去の記憶は、わたしたちに不幸のどん底につき落とし、人生を災厄のかたまりにする力ももっている。

 過去はあたかも「実在」のように、「目の前」に存在するかのように、わたしたちは反応し、苦悶や苦痛にのたうちまわる。

 しかし、過去はほんとうに目の前に「ある」のだろうか。目の前に過去をとり出すことなんてできるだろうか。

 過去は「いま」、どこにあるのだろう? いま目の前に「かたち」あるものとして、とりだすことができるだろうか。

 もう、この世界のどこにも存在しない、「頭」の中だけにある「心象」や「イメージ」にしかすぎないのではないだろうか。

 過去は永久に終わってしまい、永久にくり返されることはない、完璧に地上から消え去った「実在しないもの」ではないだろうか。

 では、わたしたちはなぜ過去をあたかも実在するかのように、目の前に存在するかのように苦悶し、絶望するのか。


「実在」しない認識

 それはわたしたちの認識自体がそういう性質のものであるからである。つまり頭のなかの「実在しない」心象や記憶を、あたかも「実在する」かのように、「目の前に」存在するかのように反応するのが、わたしたちの「認識のあり方」だからである。

 この勘違いのありかたを解こうとしてきたのが、仏教の教えである。つまり認識のあやまちを説いてきたのが仏教である。あなたがたが認識する物事は、「虚構」であり、「絵空事」なのですと。

 わたしたちの認識は、映画やドラマの「絵空事」に泣いたり、笑ったりすることと同じである。そんなものは現実にも、この世界のどこにも存在しない「絵空事」である。それなのに、わたしたちは泣いたり、笑ったりすることができる。

 現実の認識のあり方もこういう性質なのである。「存在しない」、「実在しない」記憶や心象に、泣いたり、笑ったりしているだけである。

 そして過去のつらい、不幸な出来事をあたかも現実に、目の前にありつづけると信じて、不幸や悲しみに暮れるのが、わたしたちの日常のあり方である。


過去を手放すむづかしさ

 だから、私たちは過去や認識を手放せばいいのである。そうすれば、不幸やつらい出来事も泡のように消滅してしまう。

 だけど、それはそうかんたんではない。

 わたしたちは認識をあたかも「実在」のように信じ込む世界の中で長年生きてきたし、それが長年の習慣でクセのようになっているし、記憶やそれを反芻する思考は、わたしたちの意思と関係なく、勝手に頭のなかから湧き出してくるのである。

 記憶や思考にとりこまれると、たちまち幻想である出来事も「実在」のようにあつかう習慣にのみこまれる。

 だから、禅や仏教ではひたすら頭を空っぽにすること、思考を流す訓練がおこなわれる。「実在」の波にのみこまれないためである。

 記憶や思考という「実在しないもの」にのみこまれなくなったときにはじめて、わたしたちは実在の不幸や闇から解放されるのである。


至福の瞬間

 むろんドラマの『掟上今日子の備忘録』はそういうメッセージを語っていたのではない。

 一日で記憶をなくす存在を出すことによって、一日で不幸や苦悩をシャットダウンできる至福に近い存在をあらわしていただけである。

 記憶をなくすことはほんとうに不幸なのかと、仏教系の教えと至福からは、考えられるわけである。

 記憶がないことはわたしのアイデンティティや幸福な思い出をうしなうことでもある。同時に不幸やつらい過去も手放す至福のあり方でもある。

 過去に殺されている、過去の呪いに囚われている方には、記憶が一日でリセットされてしまうというあり方をめざせばいいのではないかということができる。

 過去や記憶から解放されるとき、わたしたちは幼子のようにはじめて出会う世界に毎瞬、新鮮な驚きをあじわうことになるだろう。それこそが仏教やニューエイジでいう至福の瞬間ではないだろうか。


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