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11 29
2015

社会批評

裁きや正義も、ただの「暴力」だということ



悪や犯罪はどこまでも裁いてもよいのか

 犯罪者にたいする罵倒や暴言がまともな人間の範疇をこえて、ときに狂人や犯罪者並みになってしまうことがある。

 レイシズム集団にたいするアンチ・レイシズムの罵倒や暴言が、同じように過激すぎたり、人格攻撃にまで走って、シンパシーを感じていた人も引いてしまうことがある。

 悪や犯罪と認定されたものは、どこまでも裁いてよい、攻撃してよいという暗黙の了解、前提があるからだろう。悪人はどんなひどいことも、情け容赦ないことをしてもいいという社会的常識があるらしい。

 これはいっぱん的に犯罪者を裁く刑罰の法律や社会的常識があるからだろう。犯罪者や悪と認定されたものは、もうどこまでも裁いても、攻撃してもいいのである。もうすでに「人間」の範疇をあたえられなくなったからである。そんなひどいことをした者は、もう「人間ではない」からだ。

 犯罪者を裁くこと、断罪することは絶対的な「正義」である。世の中の「よいおこない」、「常識をもったおこない」である。


裁きや刑罰の暴力性

 しかし、ちょっと待ってもらいたい。

 人を裁くこと、刑罰をあたえることも暴力ではないのか。だれかを拘束して、人の自由を奪って、刑務所に閉じ込める。

 これはれっきとした暴力でないのか。これ自身、無罪の者にすれば犯罪である。

 さらに刑罰は、何年ものあいだ容疑者を刑務所という不自由な空間に閉じ込めることができ、矯正や教育がおこなわれ、ときには死刑という命を奪う「殺人」までおこなわれる。

 これは最高に暴力的な、人間社会のいちばん基本的なタブーではないのか。

 裁きや刑罰はただの「暴力」である。それを無罪の者にすれば、「犯罪」になることでもわかる。


 でもこの社会では裁きや刑罰は「正義」であり、「正当的」なことである。

 なぜ最高に暴力的で、犯罪的な行為が、「正義」なのか。



暴力と国家の独占

 それは犯罪者が犯罪的な行為をおこなったからである。犯罪に犯罪を報いるのはとうぜんであるということである。

 しかし、犯罪に犯罪を報いることは、それ自身、犯罪になるのではないか。ただの暴力や犯罪となにが違うのか。


 それはその暴力や犯罪と同等の行為を、国家が独占しておこなうことから、犯罪と暴力の罪から逃れられるということである。

 つまり個人が報復としておこなえば犯罪であるが、それを国家にゆだねて暴力を独占的にふるう権利をあたえられるから、犯罪に当たらないということである。

 国家は犯罪を取り締まるための暴力や犯罪的手段を特権的にもちいてもよいとする超法規的措置があるというわけである。


 やっていることは暴力や犯罪と変わらない。だけど国家が独占的にそれをおこなう権利があたえられているから、暴力にも犯罪にもならないというわけである。


超越的裁定者を決めるのはだれなのか

 しかしもし国家も個人と同等の存在にすぎないとすると、国家はだれかを裁き、かれに暴力や犯罪的行為を加える権利は、どうやったら与えられるというのだろう。

 特権的、超越的に暴力的権力をもったものが、秩序を裁定する、平定するしかなくなるだろう。

 けっきょく、権力を超越的に持つものが裁定者、審判者になるしかない。

 このゆがみをもったのが国際秩序であって、アメリカのような超大国が国際社会の秩序をたもつ警察のような役割をすることになる。しかしイスラム社会や後進国にとっては、西欧に有利で特権的なルールや裁定ばかり押しつけるという憤りをもつ結果になる。

 たとえば、日本の戦国社会では戦国武将が各国に立っているとき、だれが勝利者や優越者として裁定するのだろう。それぞれ武将がわれこそが優越者として主張すれば、いつまでも全国平定がなされることはない。そういうジャッジをおこなう超越者が、天皇という二重権力によっておこなわれたのが日本の歴史ではないだろうか。


個人的私刑は犯罪である

 一般人にとって裁判や刑罰は、正義や公正な善であると思われている。そのためにその暴力性、犯罪性が気づかれにくく、忘れられがちである。

 裁きや刑罰、正義が暴力や犯罪ではじめてなしとげられる権力の不均衡、不公平でおこなわれることが見えない、気づかれにくい。

 そして正義や裁きは、悪でも犯罪でもないと思うことが始末に悪い。


 その暴力は国家に一元的にゆずりわたされているから犯罪にならないだけであって、個人がその暴力をふるえば犯罪である。

 一般人の暴力を取り上げて、その暴力を一元的に国家をおこなうことで、犯罪の超法規的逸脱はみとめられているだけである。

 個人がそれをおこなえば、犯罪のなにものでもない。個人が国家の権力のように裁きや私刑の権利を行使してもよいと思うようになると、私刑やリンチ、決闘のような中世のような野蛮で無秩序な世界が広がることになる。

 一般人には犯罪者を裁くことも、私的な刑罰を加えることを禁止されているから、社会秩序は保たれて、文明のルールは守られているのである。

 それなのに一般人は犯罪者を断罪して、報復してもよいかのようにふるまうことが多々ある。正義や善だからといって、逸脱した裁きや罵倒もおこなってよいと思われている。

 それは暴力や犯罪と同等であるということが見過ごされているからだろう。


暴力の自覚を

 国家がおこなう裁判も刑罰も、基本は「暴力」である。個人には禁止されている「暴力」である。国家が一元的にふるう権力をあたえられている仮契約にすぎない。

 それを忘れると、個人が犯罪者並みの暴力や攻撃を加える「犯罪」をおこなってしまうことになる。


 個人が正義や善と思われることを、犯罪並みに逸脱して過激な暴力行為をおこなうのは、正義が暴力であることを気づかず、また自分はその権利を国家に奪われている、国家に一元的にゆだねているということを知らないからである。


 国家がおこなう裁きや刑罰をまねておこなう個人の正義は、暴力や犯罪以外のなにものでもない。もともと国家がおこなう権力の行使自体が、「暴力」や「犯罪」同等の権力の行使にほかならないからである。

 裁きや刑罰、正義を個人がおこなっていいと思うようになると、あなたはどんどん「犯罪者」「暴力者」に近づいてゆくことに気をつけてもらいたい。それ自身が、暴力のなにものでもないからだ。


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悪人は善人を悪に仕立て上げることからはじめるそうですね。
一般社会において悪人が正義の剣で善を断する暴力は見ていて本当に嘆かわしいことだとわたしも感じています。
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