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ロンダ・バーンの『ザ・シークレット』をくりかえし頭にたたきこむように読んでいる。ご存知、「引き寄せの法則」ブームの引き金になった本だ。もちろんこれはジョセフ・マーフィー以下、自己啓発家がくりかえしいってきたことで、自己啓発では目新しいことではないのだけどね。
楽しい、明るい気持ちでいればいいことがおこり、暗い、悲しい気分でいれば、そのとおりのことがおこるというものだ。
これはたんじゅんに信奉してもいいと思っている。まちがっていても、たいして害はない。いま、明るい気持ちでいることを習慣にできるのなら、未来にべつに害はないだろう。
疑い深い人というか、ふつうの人は、自分の思っていることや願うことがそのまま叶うわけがないと思うのはあたりまえである。『ザ・シークレット』では宇宙に願いをたくせば、すべて叶うというからだ。ただし、いまそれが叶ったようにリアルに喜ばないとそれは叶わないという条件つきだが。
これは神社の祈願成就とおなじ考え方だね。いちおう神社では願をかけるが、それは叶うと思っているというよりか、慣習や儀式ていどにしか思わないのがふつうである。
『ザ・シークレット』や引き寄せの法則ではそれが現実に叶うという。それ、見たことか、願ったことは叶うわけがないというのがふつうの人の反応である。
そこで引き寄せの法則はうさんくさい、捨てられるものになる。でも引き寄せの法則はいま明るい、楽しい気分になることがおもな目的であって、未来に叶うこと、成就することは、おまけやただのエサにしかすぎないと考えることもできる。
いま、明るい、楽しい気持ちになることがすべてだ。それ以外の時間をわれわれは感じることも、体験することもできないのだから、いまの気もちを最大限よくするのは理にかなったことだ。いまの気もちをハッピーに保つためにひとつの仕掛けにすぎないと割り切ることもできる。引き寄せの法則はそのための仕掛けにすぎないと受け入れてもいいだろう。
まあ、これはいま明るい気持ちでいれば、明るい見方をすることになるし、ものごとの明るい面を見るようになる習慣をつくることになる。
人の見るものは気分によって左右されるもので、明るい気持ちのときは明るい面、暗いときには暗い面ばかりクローズアップする性質がある。感情の連想でものごとの見られる面は変わってくる。だから、いま明るい気持ちを保つことはひじょうに大事になってくる。
このような習慣を保ちつづけようとすると、ひとつ疑問に思えることはどうして人は悩んだり、暗い気持ちになる考え方や感情をいつまでもひきずったり、後生大事に抱えるのかということだ。
人はものごとを悲観的に見たり、どこまで落ち込んだ気分を追求するものである。
それは事態を打開したり、事態を好転したことがあったのだろうか。その結果を検証もせずにわれわれはどこまでも不快な気分を後生大事に抱えるものである。なにかご利益はあったのだろうか。
引き寄せの法則ではそれはそのような未来をひきつれてくることになっている。現実にそのような悪い出来事を引き寄せてしまうのだ。なぜこのシンパの人たちには避けるべき、忌避すべきことを、多くの人はあたりまえの習慣にしてしまうのだろうか。
それは感情の力を信じているということになるだろうか。感情はその気分を晴らす出来事をもたらすはずだと信じている。
だけど、感情をサポートしてくれるのは赤ん坊の泣き声のように母親やまわりの人がかまってくれるための「信号」にすぎないのではないか。悲しみや怒りはまわりの人がなだめてくれるための信号である。対人向けの信号やメッセージであって、暗い感情はひとりで解決する道をもたらすものなのだろうか。
暗い、悲しい感情はものごとを解決したり、出来事を変えるなにかをもたらしたのだろうか。
感情はものごとを変える力をもつのだろうか。現実を好転させる力をもつものだろうか。
サルトルは感情を「魔術的な試み」といったのだが、暗い感情にしがみつく行為はじつに多いのである。
感情の効用というものの効果を冷静に見極める必要があるようである。
引き寄せの法則というのは、未来の結果が現実にそうなるかの検証はかんたんではない。叶うといっていたのにぜんぜん叶わないじゃないか、いい気持ちでいればいいことばかり起こるわけがなく、いやな出来事がいっぱい起こったじゃないかという不満や疑念が多くふりつもることになるのが事実というものだろう。
けっきょく、そんなに願いが叶わなくても、現実にいやな出来事が起こりつづけても、どこまでも信じつづけること、どんな挫折がつづいても、いつまでもめげずに信奉するしかない継続こそ大事ということになるのだろう。
信念をいつまでももちつづけることだけが最後に残りそうな考え方である。
主眼は「いま」を明るい、楽しい気持ちに維持することであって、未来の結果が大事であるわけではないからということもできる。ただ、これだけでは引き寄せの法則の期待は減じることになるのだけどね。
まあ、これは信念や信奉が最後までに残るただひとつのより所ということになるかもしれない。
べつにこの考え方を信奉しても、なんらかの害があるわけではない。叶わない、成就しない挫折感、悲しみが何度も襲うかもしれないが、それさえも「いまの明るい気持ち」を維持するために、「捨てなければならない」。
そのことによって、無限の明るい気持ちを維持する再スタートが切られるわけだ。「いまの明るい気持ち」がメインターゲットなら、引き寄せの法則は挫折感すらさっさとやりすごすことが肝要になる。どこまでも明るく明日を信じろということである。脳内「お花畑」なんだけどね、でもそれが未来の結果というのなら、そうすべきしか選択肢はないのだ。
未来の成就をひたすら信じつづけ、挫折感すらものともせずに、ただ明日を信じていまを明るい気持ちでいるしかない。疑念派の人にはそういうしかないか。





![]() | ザ・シークレット ロンダ・バーン 角川書店 2007-10-30 by G-Tools |
楽しい、明るい気持ちでいればいいことがおこり、暗い、悲しい気分でいれば、そのとおりのことがおこるというものだ。
これはたんじゅんに信奉してもいいと思っている。まちがっていても、たいして害はない。いま、明るい気持ちでいることを習慣にできるのなら、未来にべつに害はないだろう。
疑い深い人というか、ふつうの人は、自分の思っていることや願うことがそのまま叶うわけがないと思うのはあたりまえである。『ザ・シークレット』では宇宙に願いをたくせば、すべて叶うというからだ。ただし、いまそれが叶ったようにリアルに喜ばないとそれは叶わないという条件つきだが。
これは神社の祈願成就とおなじ考え方だね。いちおう神社では願をかけるが、それは叶うと思っているというよりか、慣習や儀式ていどにしか思わないのがふつうである。
『ザ・シークレット』や引き寄せの法則ではそれが現実に叶うという。それ、見たことか、願ったことは叶うわけがないというのがふつうの人の反応である。
そこで引き寄せの法則はうさんくさい、捨てられるものになる。でも引き寄せの法則はいま明るい、楽しい気分になることがおもな目的であって、未来に叶うこと、成就することは、おまけやただのエサにしかすぎないと考えることもできる。
いま、明るい、楽しい気持ちになることがすべてだ。それ以外の時間をわれわれは感じることも、体験することもできないのだから、いまの気もちを最大限よくするのは理にかなったことだ。いまの気もちをハッピーに保つためにひとつの仕掛けにすぎないと割り切ることもできる。引き寄せの法則はそのための仕掛けにすぎないと受け入れてもいいだろう。
まあ、これはいま明るい気持ちでいれば、明るい見方をすることになるし、ものごとの明るい面を見るようになる習慣をつくることになる。
人の見るものは気分によって左右されるもので、明るい気持ちのときは明るい面、暗いときには暗い面ばかりクローズアップする性質がある。感情の連想でものごとの見られる面は変わってくる。だから、いま明るい気持ちを保つことはひじょうに大事になってくる。
このような習慣を保ちつづけようとすると、ひとつ疑問に思えることはどうして人は悩んだり、暗い気持ちになる考え方や感情をいつまでもひきずったり、後生大事に抱えるのかということだ。
人はものごとを悲観的に見たり、どこまで落ち込んだ気分を追求するものである。
それは事態を打開したり、事態を好転したことがあったのだろうか。その結果を検証もせずにわれわれはどこまでも不快な気分を後生大事に抱えるものである。なにかご利益はあったのだろうか。
引き寄せの法則ではそれはそのような未来をひきつれてくることになっている。現実にそのような悪い出来事を引き寄せてしまうのだ。なぜこのシンパの人たちには避けるべき、忌避すべきことを、多くの人はあたりまえの習慣にしてしまうのだろうか。
それは感情の力を信じているということになるだろうか。感情はその気分を晴らす出来事をもたらすはずだと信じている。
だけど、感情をサポートしてくれるのは赤ん坊の泣き声のように母親やまわりの人がかまってくれるための「信号」にすぎないのではないか。悲しみや怒りはまわりの人がなだめてくれるための信号である。対人向けの信号やメッセージであって、暗い感情はひとりで解決する道をもたらすものなのだろうか。
暗い、悲しい感情はものごとを解決したり、出来事を変えるなにかをもたらしたのだろうか。
感情はものごとを変える力をもつのだろうか。現実を好転させる力をもつものだろうか。
サルトルは感情を「魔術的な試み」といったのだが、暗い感情にしがみつく行為はじつに多いのである。
感情の効用というものの効果を冷静に見極める必要があるようである。
引き寄せの法則というのは、未来の結果が現実にそうなるかの検証はかんたんではない。叶うといっていたのにぜんぜん叶わないじゃないか、いい気持ちでいればいいことばかり起こるわけがなく、いやな出来事がいっぱい起こったじゃないかという不満や疑念が多くふりつもることになるのが事実というものだろう。
けっきょく、そんなに願いが叶わなくても、現実にいやな出来事が起こりつづけても、どこまでも信じつづけること、どんな挫折がつづいても、いつまでもめげずに信奉するしかない継続こそ大事ということになるのだろう。
信念をいつまでももちつづけることだけが最後に残りそうな考え方である。
主眼は「いま」を明るい、楽しい気持ちに維持することであって、未来の結果が大事であるわけではないからということもできる。ただ、これだけでは引き寄せの法則の期待は減じることになるのだけどね。
まあ、これは信念や信奉が最後までに残るただひとつのより所ということになるかもしれない。
べつにこの考え方を信奉しても、なんらかの害があるわけではない。叶わない、成就しない挫折感、悲しみが何度も襲うかもしれないが、それさえも「いまの明るい気持ち」を維持するために、「捨てなければならない」。
そのことによって、無限の明るい気持ちを維持する再スタートが切られるわけだ。「いまの明るい気持ち」がメインターゲットなら、引き寄せの法則は挫折感すらさっさとやりすごすことが肝要になる。どこまでも明るく明日を信じろということである。脳内「お花畑」なんだけどね、でもそれが未来の結果というのなら、そうすべきしか選択肢はないのだ。
未来の成就をひたすら信じつづけ、挫折感すらものともせずに、ただ明日を信じていまを明るい気持ちでいるしかない。疑念派の人にはそういうしかないか。




