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10 04
2014

映画評

『風立ちぬ』 自分の夢と危険なナショナリズム

 『風立ちぬ』を見た。見終わった感想としてはおもしろくなかったし、感動もなく、感想はないというしかないと思った。

 


 ただ疑問に感じるところがあった。昭和初期に軍用機をつくった主人公は、戦争反対の立場からすれば、殺戮と破壊の兵器をつくった「悪人」として断罪されてよいはずの人物である。しかしこの映画では悪役にもされず、断罪もされず、どちらかというと共感できる、好感をもてる「こちら側」の人物として描かれていることだ。

 「夢」を追うすばらしい共感できる人物として描かれている。最後のシーンに飛行機の残骸と婚約者の死が描かれるだけである。それまではずっと夢を追う、こんにちでは推奨される人物として共感されている。

 たった一シーンだけ貧しい子どもたちに食べ物をほどこして拒否されるシーンが描かれるだけである。かれは正義感の強い、人助けのする好青年なはずである。このシーンがはさまれた意味はなんだろうか。

 なぜ殺戮と破壊の兵器をつくった人物が断罪もされず、共感されているのか。

 青年が無垢に、純粋に夢を追ったことが戦争の道具として用いられ、ナショナリズムに奉仕することになり、ナショナリズムの惨劇をあじわっている。これを宮崎駿自身の人生とも重ねると、世界的評価をうけて、国民的映画監督として賞賛される宮崎駿におおいかぶされるナショナリズムとも近いともいえるのではないか。

 青年が夢中になって追った夢がナショナリズムの道具として用いられている。これではまるで戦争に奉仕した主人公、堀越二郎とおなじすがたではないのか。宮崎駿自身はインタビューでそういう意図で映画を描いたのではないといっている。ではなんのために描いたのか。宮崎自身がそういった姿をまだ相対化できていない、否定することができずに、投げ出したかたちであらわすしかなかったいまの姿をあらわしているのではないのか。

 自分の夢がナショナリズムであったのだ。戦争を反対する立場でありながら、自身の夢はナショナリズムを追うことだったのだ。そのつながりの区分けや否定をできていない。なにが悪で、なにが善だったのか、自分でも整理できていないのではないのか。

 この作品は昭和初期の『プロジェクトX』である。そしてそのプロジェクトXは戦争のナショナリズムに奉仕し、貢献することになった。戦後の昭和の経済プロジェクトはナショナリズムではなかったのか。戦争に貢献するようなナショナリズムとなにが違ったのか。戦後のわたしたちはその区分け、判別をできていない。自分たちの夢や貢献を否定できずにいる。戦争を導いたようなナショナリズムとは違うのだといった漠然とした思いを抱いている。

 「健康的」なナショナリズムがあり、「不健康」なナショナリズムがあるといった意見もある。しかしほんとうにそれを画然として分け、明確に線引きができるつながりのないものといえるのか。わたしたちの個人が描く夢自体がナショナリズムの正体そのものではないのか。

 わたしたちの夢や目標は正義であり、人はその夢に向かって励むことがこんにちの人生の理想であり、正常な人生と思われている。しかしその目標はナショナリズムに貢献し、他国を排撃し、他国を滅ぼすような価値観を最終的にもたらしてしまうナショナリズムそのものではないのか。

 しかしそういってしまえば、人はなんのために生きるのか、なにを理想にめざして生きるのかといった人生の無意味さにつき落とすことになる。ナショナリズムを否定すれば、人は人生に勝ちを求めることも否定され、偉くなること、賞賛されるような人物になることも否定されてしまうではないか。人生そのものの否定になってしまうのではないのか。

 老荘思想や仏教では、そのような人生の否定、欲望の滅却を肯定した人生観を語ってきた。それでも充足できる、あるいは安楽の境地があるといってきた。しかし世俗の人間がそういった価値観、人生観をうけいられるとはとうてい思えない。しかも欲望はこんにちの貨幣経済、資本主義の原動力である。おろかに欲望、夢に邁進することが貨幣経済の循環・流通には必要不可欠のことなのだ。

 こんにち、スポーツや経済、文化でのナショナリズムが否定されることはない。戦争へと結びつくナショナリズムは否定されるだけである。ではその違いはなんなのか。どこでどう区分けすることができるのか。夢を肯定して、危険なナショナリズムにならない線引きはどこで可能なのか。そういった問いかけをあまりにもおろそかにしすぎてきたのではないか。

 ふつうの人が人生に抱く夢、人生への希望、渇望が、人を殺戮や破壊へと導くナショナリズムとどう厳然と区分けできるのか。わたしたちがめざす人生の目標、夢自体にそういった殺戮と破壊の心根がそなわっているのではないのか。近代と資本主義の欲望、夢といったふつうに人に刻印された人生観こそ問われるものではないのか。

 トルストイは栄光と名誉にうめつくされた自分の人生を晩年に否定するようになった。その栄光や名誉をめざす人々の人生自体が数々の惨劇をもたらすのではないのか。宮崎駿はその手前で立ちすくんでいる。まあ、たいがいの人は凡庸で、無価値で、無意味な人生に耐えられないのはあたりまえのことなんだけど。


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 【テレビ放送を見ての追記】 2015/2/21

 けっきょく、主人公の堀越二郎の生き方は肯定されていたのか、否定されていたのかということがこの映画がわかるかわからないかの判断のキモになるのではないかと思う。

 主人公は少年からの夢を追いつづける人物として全体的、表面的に肯定的に描かれている。しかしところどころや外枠にこの青年にたいする批判的な面ものぞかせる。美しさをもとめる代償として犠牲になったもの、目にしなかったもの、かかわらなかったもの。菜穂子は美しさの代償として死期を早めたかもしれないし、主人公はエリートで庶民の貧しさや格差と無縁の世界に生きている。主人公のつくった飛行機によって戦場から帰還することのなかった戦闘員たちもおおぜいいる。

 宮崎駿はテレビのインタビューで「この国のおかしさは堀越二郎を描かないと出てこない」といっていた。基本的にこの物語は批判の背景に浮かんだ小春日和のような物語なのかもしれない。夢を追う少年は肯定的に描かれていた。しかしその背景、見えない多くの部分は、否定的・批判的なものに覆われている。

 この物語は前景の肯定を描きたかったのか、後景の否定を描きたかったのか、そのへんがはっきりしない。前景は夢を追う青年の肯定的な物語である。しかしその背景、後景は否定に染められている。

 わたしはやっぱり菜穂子の死が美しさを追い求めた代償であり、戦争へとつきすすんだ時代背景からも、この物語は肯定的に描かれたわけではないと考えられずにはいられない。


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Comment

まずイデオロギーと先入観ありきの狭い視野で物事を見ているからつまらない文章しか書けないのかもしれませんね。あなたは自分の口に合わない物はわからないか嫌いで済ませる幼児的なところがありますから 
能がないならそれなりに謙虚な姿勢でいなさい
宮崎駿について少し調べれば見つかる程度の知識すら持たず論じている 

古い記事に失礼します。
少し眠れなかったもので。つい。

>>なぜ殺戮と破壊の兵器をつくった人物が断罪もされず、共感されているのか。

それこそが作中でのメインとなるテーマだと思います。刃物や自動車もある種の芸術である。しかし使い方一つで殺戮と破壊の兵器たりえます。弓や銃もそうです。もちろん飛行機も。
テーマは美しさに魅入られた者への呪いだと思います。

>>この物語は前景の肯定を描きたかったのか、後景の否定を描きたかったのか、そのへんがはっきりしない。

私は、はっきりしないことが答えだと感じました。
戦いそのものが人類の歴史とも言えます。
戦う者は美しい。戦争は陰惨で美しくもある。
単に戦争を悪だと断罪するのは簡単ですが、同時にそれは人類そのものの否定にもなりえます。
菜穂子もまた同じです。
時として人間は美しさにひれ伏すのだと思います。
人間を、戦争を、善悪だけの物差しで誰がはかれましょうか?
宮崎駿とて同じかと。
美を追求する者の呪いだと思わずにはいられません。生きるということは醜く美しい。
とりとめも無いことを長々と失礼しました。
おやすみなさい
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