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08 28
2014

右傾化再考

「戦後」は終ろうとしている

 嫌韓嫌中本、日本自画礼賛の本の氾濫、歴史修正主義者の活躍といったトピックをむすびつけると、国家の自尊心の復興というキーワードに束ねることができるだろう。

 経済大国としての自尊心・優越感はとっくに滅んでしまって、あらたな別の自尊心を掘り起こさないことには、国家の自尊心をもつことはできないといった断末魔の叫び声のようだ。それが外的な要因によるものではなくて、観念的・精神的なものに傾いている点でもひじょうに危惧される一面をあらわにしている。

 「戦後」は終ってしまったのだと思う。この70年近くのあいだ、時代を画する「戦後」という時代区分は、これから用途をなさない用語として沈んでゆくのではないかと思うほどの時代転換の胎動を感じる。戦後という時代区分は、国家の自尊心やアイデンティティを元に画される用語ではないのか。

 戦後という時代区分は、軍事力を放棄し、戦前の軍国主義とまったく違う、経済成長を主力にした戦後日本の体制宣言のことでもある。この経済力を主力にした体制のことこそ、「戦後」という言葉の意味ではないのか。その体制による自尊心がまったく満足させられない時代になったいま、あらたな自尊心が胎動しはじめたという点で、戦後は終ってしまったのではないかと思う。

 戦後は終ったという言葉をいままで聞かなかったわけではない。ソ連が崩壊し、冷戦構造が終り、日本のバブル経済が崩壊し、不良債権が人知れず溜まってゆく90年代の経済危機の中で、戦後は終ったという指摘は堺屋太一や金子勝などに聞くことができた。堺屋太一などは工業社会に最適化した日本は次の時代をのりきれないとし、あらたな体制づくりを提唱した。

 しかし戦後はそこで終ったかというと、世間は戦後意識をもちつづけたのではないか。あいまいな戦後延長期として、しっかりとした時代が画されたという気分をもてないまま、そのまま戦後をずるずるとつづけたのが今日ではないのか。戦後を区切るほどの大きな精神的転換をへずにこれまでの月日がたってしまったというのが現状ではないのか。

 経済的自尊心の凋落がつづくいっぽうでもたげてきた精神的な流れがネトウヨといった言葉でくくられるような日本の自尊心の復興気運ではないのか。もう日本の経済大国的な自尊心をもつことはまったくできない。変わりに勃興してきたのが冒頭にあげたような嫌韓嫌中や自画礼賛本の氾濫ではないのか。失われた国の自尊心の復活が、どこともしれない不気味な胎動として芽を出そうともがいているのではないか。

 戦後は脱ぎ捨てられようとしている。戦後というのは経済大国を目指し、それによって国民としての自尊心・優越感を満足させられた体制・時代のことをいうのではないか。その自尊心がまったく満足させられずに、あらたな自尊心が求められた時点で、戦後は終ってしまったのではないのか。草の根レベルであたらしい時代区分は胎動しはじめているといっていいのではないか。

 謝罪的な、先の戦争において近隣諸国に被害と損害をもたらしたという日本のあり方は存在しないもの、見えないもとして拭い去られようとし、隣国を蔑視し、自国の礼賛や褒賞をもたらす自国像を復興させようという動きが流れはじめている。経済大国の自負心があったときにはそのような態度も受け入れられたのかもしれない。だが経済大国の自負心が砕け散った余裕のない現在においては、謝罪的な加害者的な自我はもう耐えがたきものに感じられるらしい。戦後は脱ぎ捨てられようとしている。

 日本は今後どのような自尊心を打ちたてようとするのだろうか。そしてこの自尊心のあり方ひとつで日本の命運は決まってしまうといっていいのだろう。しっかりとした成功する自尊心を打ち立てられるのか、それとも戦前の二の舞のような悲惨な自尊心を打ち立ててしまうのか。

 現在、国家としての自尊心を満足させられるような外的条件はあるだろうか。現実的な条件はあるだろうか。青写真がまったくないのに、国家的な自尊心を打ち立てようという気運だけがあるように思える。だから隣国を蔑視・罵倒することでしか優越感を満足することができない低次元にとどまってしまうのである。空回りしてしまう時代といっていいか。

 精神の前のめり状態が存在し、外的条件には上昇気流にのるような絶好の条件があるわけではない。明治維新、戦後の日本には経済的好機という外的な要因があって成功できた。しかし大正・昭和初期のころには現代と似たような精神気運だけで持ちあげようとする時代精神があったのではないか。現代はその失敗の萌芽期にひじょうに似ているのである。

 自尊心と優越感だけをもちあげようとする虚構の精神の気運だけが勃興している。グランドデザインもまったく描かれていない。精神だけが勃興しようとしている。ひじょうに危うい新時代のはじまりである。

 虚だけが暴走して、実のない時代。いかに現実の着地点を見つけるか。近代の歴史には二度の成功と一度の失敗例がある。この失敗例におちいらないような成功の器用な峻別が必要なのだろう。現在は失敗例にきわめて似た時代であることを忘れてはならない。


戦後の終わり終わりなき戦後を問う「大変」な時代―常識破壊と大競争 (講談社文庫)僕たちは戦後史を知らない――日本の「敗戦」は4回繰り返された戦後とは何か(上) 政治学と歴史学の対話


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Comment

膝を打ちました

うえしんさんのここ一連の問題意識に深い興味を持たせて頂いています。

私は78年生まれ、経済の浮き沈みを同時に経験しつつ、いわゆる「戦後」的精神は続いていくのだろうと漠然と考えていました。そこに安寧と多少の不満を抱えつつ。

それがここ数年の精神面のドラスティックな変化はどうでしょう! むき出しになった「何か」の存在に困惑するばかりでした。

今回の記事は、その変化の構造を大変わかりやすく整理してくださっていて、ある意味では安心を得られました。
ただし、今のところ、新たな時代に明るい要素をひとつも見つけられず、その意味では、不安の深淵についに立たされてしまった、というような心境でもあります。

英語の勉強の為にとTwitterを始めたばかりの頃はJAPAN・Japaneseなどの語で検索してましたが。
すぐやめました。
オリンピックの招致合戦の頃だったので、オリンピック招致の妨害という事もあったのでしょうが…
英語圏で日本・日本人とは嘲笑・侮蔑・袋叩きの対象なのだろうかと悲しくなるくらい、どぎつい悪口が度々見受けられました。

反日国の人達が日本・日本人に、関してどんな悪口を言いふらしてるか、それを信じてる傍観国の人達がどんな好き勝手な偏見を日本・日本人に持ってしまっているか。恐ろしいものがあります。

ネットに溢れる外国人の方々の発言を目にすれば、「他国を卑しめ貶め、自国礼賛、歴史修正主義」というものは、日本でではなく、他国でこそ長年にわたって当たり前のように正当化されてきてる事が解ります。

「現象」には大雑把に「内部から起こるもの」と、「外部からの刺激に反応してるもの」があると思います。
「外から加えられてる悪意」に対して悪意でカウンターしてしまうのは反応としてはよくある事です。

嫌韓以前に、日本・日本人に対する悪意的偏見が存在しています。
そうした偏見の発生源が中韓だと露呈してるから、中韓側が世界に向けて言いふらしてる日本の悪口に信憑性を与えない為に、中韓側の嘘を看破する情報が書籍にもネットにも反映するようになったのだと思います。
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