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人は序列というものにこだわってしまう生き物であるが、序列の価値観にどっぷりとはまってしまうのではなくて、それを相対化する視点をもつことが、この人間社会ではとてもたいせつなことだと思う。
おとしめられることを恐れ、勝つことに喜びを感じるのは人の習性である。
だけれどそれは「だれに」とって都合のよいものであるか、だれかにその序列を恐れさせられることによって競争をしかけられているだけではないかという疑念も必要だと思う。それは「だれかの利益」に奉仕するだけの競争ではないのか。
序列は自分の価値や自分の存在感を知る貴重なモノサシかもしれない。しかしそれを競うことは、だれかの利益や手篭めにされるためのパン食い競争ではないのか。落とし穴として序列競争はあるのではないか。
会社の序列は人の自分の価値や重要度を測るモノサシになっている。それを競争することは会社の利益に貢献することのみ利しているのではないか。自分の価値をその序列で測ること、そのレースに生涯を賭けることは、会社の思うツボではないのか。
序列はだれかに踊らされている、だれかの利益に利用されていると疑問に思うだけではなく、人の道徳的なあり方、自分の心の平安、他者の見方において、害悪や弊害をもたらす穏やかざる見方ではないのか。
劣位は貶められ、心おだやかにいることをできなくさせ、勝つこと・優越感は他者の侮蔑や見下しをはぐくみ、ときには排斥や虐待や暴力に導くかもしれず、この序列意識はだれかに嫉妬し、足をひっぱり、恨み、怨恨を抱かせる、とても平穏ならざる心のベースとなるものではないのか。
序列を相対化することはそのモノサシのなかで塗炭の苦しみを味わうものにはとても必要な、それから距離をおいて傍観者のようなおだやかさをもつために必要な方法論である。
だれかの手の内で競争させられている、だれかの利益のためににんじんをぶら下げられて競争しているという疑問をもつことは、そのモノサシから距離をおくためのひとつの方法だろう。
こんにちでは非正規はみじめで、正社員は守られているという序列意識、差別意識をもつことが一般にひろまっているのだが、この序列意識をもつことはだれに貢献して、だれが得をしているのだろう。いっぱんの人たちにこういう序列意識、差別意識をもたせることは、産業界や企業にとって、人々をチキンレースへと駆り立てる都合のよい恐怖に適しているのではないか。
わたしたちは隣三軒のせまい競争意識の中だけを見ているかもしれないが、もうすこし大きな視野で見ると、その競走はだれかの利益と権益のために奉仕と貢献させられるための競走場になっていると見ることも必要なのではないか。
女性は陰で序列を競い合う陰険な世界をもっているというよくささやかされることがある。つき落としたり、けなしたり、陰で悪口をいい合ったりと。学歴であり、彼氏や夫の年収であったり、ファッションであったり、既婚や独身であったり、出産や子をもたないなど、さまざまな序列や競争が陰謀のように渦巻いている。この競争は天分の才であるのか、だれかに競争をしかけられ、だれかに踊らされたものか。
わたしたちはバブル崩壊を境に、消費活動がマスコミや広告戦略に踊らされ、操作されているというひじょうにシビアな見方をするようになった。消費においてはマスコミに踊らされることの警戒心はかなり強くなったと思う。若者は高級ブランドや流行に乗らなくなり、若者の「消費離れ」がいわれるようになった。
消費に踊らされているという感が強くなったのだが、わたしたちのまわりにある序列意識も、だれかに操作され、踊らされているという意識をもつことはあまりない。序列競争はあまりにも「自明」で、「自然発生的なもの」と思われているかのようだ。この序列意識にこそ、だれかの都合に奉仕する序列競争ではないかと疑う目が必要なのではないか。
いまの社会は学歴で序列をつくられる社会になっている。学歴でめぐまれた大企業、裕福な収入や待遇といった序列が人々にふりわけられるとされている。この知識で序列をふりわける学歴階層にはたいそうな反発と怨恨があって、おかげでインテリや教養の価値は信頼をうしない、若者はマンガやアニメに自分の価値を賭け、ヤンキーは暴力的にこの階層に反逆し、テレビのお笑いはこの学歴序列をもの笑いの種にすることによって、その権力の根を崩しにかかった。
基本的に人はだれかに自分の序列を勝手に決められること、自分の価値をだれかの都合で値踏みされることにたいそうの恨みと反抗心をもつようだ。知識階層の権力はそのような圧倒的な権力をふるい、人々からずいぶん怨まれ、カウンターカルチャーの攻撃をいくえも受けている。
よって人々の学歴序列にたいする防衛心、対処能力はいくつもの対策をもつことだろう。学歴の序列、差別、恐れ、自分のアイデンティティに重ねることの防衛や対処能力は、いくつものオルタナティブをもっている。
学歴で人々をチキンレースに駆り立てることができなくなると、非正規/正規といった序列・差別で人々をチキンレースに駆り立てる恐れを植えつけることもできる。労働の目的やしゃかりきに働くこと、企業に滅私奉公することの疑問や懸念が人々に浮上するに従い、企業界は人々に恐れや序列で競わせることの必要を痛感したのではないのか。平等で保障された人々にはもはや競争や向上する強い意志はのぞめない、ならば恐れで競争を煽り立てる。
人々はさまざまな序列意識をもち、価値観をもち、そこで競争したり、一喜一憂したりする。それは悪い面ばかりではなく、人々に向上や成長をもたらす契機になる面も否定してはならない。人々は競争や序列、勝ち負けが大好きで、強い関心をひきつけ、スポーツではそれが競われる。それに溺れすぎ、一体化し、距離をもつことができなくなると悲劇と悲惨さがおこる。序列はひとつのモノサシ、お遊びくらいの余裕がほしいところである。
序列の根底にあるものとして日本では年齢序列がいがいに強い。儒教の影響だといわれる。年上や目上のものを敬い、絶対だとする価値序列はとくに体育会系のクラブや軍隊的組織に根強い。けっこう深いところにしみこんでいるので、この年齢序列から外れることに恐れを抱く人は多いのかもしれない。だけど年上だから優れている、凌駕すると絶対にはいえないのであって、個人差のほうが大きいのだろう。この価値序列に疑問を抱くことはその序列体系の相対化に近づける。
序列の相対化は人が生きるうえでひじょうにたいせつな知恵、メソッドだと思う。序列意識に完全にのみこまれると、余裕がなくなり、それに必死になり、序列に命を賭すようになり、弊害と害悪をもたらす。
相対化というのはその至上とされる価値感に疑問の言葉をいくつもならべると、けっこうその根拠をゆるがせるものである。その序列を絶対なものとしていれば、思いもつかない発想である。序列に距離をおけることによって、わたしたちは無益で疲労度の高い、しなくてよい人生の回り道を防げるのかもしれない。
いちばん防ぎたいことは、恐怖によって序列競争を駆り立てられていることである。恐怖に駆り立てられているときには、あなたはただの「奴隷」になり、「盲従の民」となる。この社会の支配方法は、頭が空っぽであるから支配されるとよく批判されるのだが、そうではなくて、序列の恐怖に服従させられることだろうとわたしは思うのだが。
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おとしめられることを恐れ、勝つことに喜びを感じるのは人の習性である。
だけれどそれは「だれに」とって都合のよいものであるか、だれかにその序列を恐れさせられることによって競争をしかけられているだけではないかという疑念も必要だと思う。それは「だれかの利益」に奉仕するだけの競争ではないのか。
序列は自分の価値や自分の存在感を知る貴重なモノサシかもしれない。しかしそれを競うことは、だれかの利益や手篭めにされるためのパン食い競争ではないのか。落とし穴として序列競争はあるのではないか。
会社の序列は人の自分の価値や重要度を測るモノサシになっている。それを競争することは会社の利益に貢献することのみ利しているのではないか。自分の価値をその序列で測ること、そのレースに生涯を賭けることは、会社の思うツボではないのか。
序列はだれかに踊らされている、だれかの利益に利用されていると疑問に思うだけではなく、人の道徳的なあり方、自分の心の平安、他者の見方において、害悪や弊害をもたらす穏やかざる見方ではないのか。
劣位は貶められ、心おだやかにいることをできなくさせ、勝つこと・優越感は他者の侮蔑や見下しをはぐくみ、ときには排斥や虐待や暴力に導くかもしれず、この序列意識はだれかに嫉妬し、足をひっぱり、恨み、怨恨を抱かせる、とても平穏ならざる心のベースとなるものではないのか。
序列を相対化することはそのモノサシのなかで塗炭の苦しみを味わうものにはとても必要な、それから距離をおいて傍観者のようなおだやかさをもつために必要な方法論である。
だれかの手の内で競争させられている、だれかの利益のためににんじんをぶら下げられて競争しているという疑問をもつことは、そのモノサシから距離をおくためのひとつの方法だろう。
こんにちでは非正規はみじめで、正社員は守られているという序列意識、差別意識をもつことが一般にひろまっているのだが、この序列意識をもつことはだれに貢献して、だれが得をしているのだろう。いっぱんの人たちにこういう序列意識、差別意識をもたせることは、産業界や企業にとって、人々をチキンレースへと駆り立てる都合のよい恐怖に適しているのではないか。
わたしたちは隣三軒のせまい競争意識の中だけを見ているかもしれないが、もうすこし大きな視野で見ると、その競走はだれかの利益と権益のために奉仕と貢献させられるための競走場になっていると見ることも必要なのではないか。
女性は陰で序列を競い合う陰険な世界をもっているというよくささやかされることがある。つき落としたり、けなしたり、陰で悪口をいい合ったりと。学歴であり、彼氏や夫の年収であったり、ファッションであったり、既婚や独身であったり、出産や子をもたないなど、さまざまな序列や競争が陰謀のように渦巻いている。この競争は天分の才であるのか、だれかに競争をしかけられ、だれかに踊らされたものか。
わたしたちはバブル崩壊を境に、消費活動がマスコミや広告戦略に踊らされ、操作されているというひじょうにシビアな見方をするようになった。消費においてはマスコミに踊らされることの警戒心はかなり強くなったと思う。若者は高級ブランドや流行に乗らなくなり、若者の「消費離れ」がいわれるようになった。
消費に踊らされているという感が強くなったのだが、わたしたちのまわりにある序列意識も、だれかに操作され、踊らされているという意識をもつことはあまりない。序列競争はあまりにも「自明」で、「自然発生的なもの」と思われているかのようだ。この序列意識にこそ、だれかの都合に奉仕する序列競争ではないかと疑う目が必要なのではないか。
いまの社会は学歴で序列をつくられる社会になっている。学歴でめぐまれた大企業、裕福な収入や待遇といった序列が人々にふりわけられるとされている。この知識で序列をふりわける学歴階層にはたいそうな反発と怨恨があって、おかげでインテリや教養の価値は信頼をうしない、若者はマンガやアニメに自分の価値を賭け、ヤンキーは暴力的にこの階層に反逆し、テレビのお笑いはこの学歴序列をもの笑いの種にすることによって、その権力の根を崩しにかかった。
基本的に人はだれかに自分の序列を勝手に決められること、自分の価値をだれかの都合で値踏みされることにたいそうの恨みと反抗心をもつようだ。知識階層の権力はそのような圧倒的な権力をふるい、人々からずいぶん怨まれ、カウンターカルチャーの攻撃をいくえも受けている。
よって人々の学歴序列にたいする防衛心、対処能力はいくつもの対策をもつことだろう。学歴の序列、差別、恐れ、自分のアイデンティティに重ねることの防衛や対処能力は、いくつものオルタナティブをもっている。
学歴で人々をチキンレースに駆り立てることができなくなると、非正規/正規といった序列・差別で人々をチキンレースに駆り立てる恐れを植えつけることもできる。労働の目的やしゃかりきに働くこと、企業に滅私奉公することの疑問や懸念が人々に浮上するに従い、企業界は人々に恐れや序列で競わせることの必要を痛感したのではないのか。平等で保障された人々にはもはや競争や向上する強い意志はのぞめない、ならば恐れで競争を煽り立てる。
人々はさまざまな序列意識をもち、価値観をもち、そこで競争したり、一喜一憂したりする。それは悪い面ばかりではなく、人々に向上や成長をもたらす契機になる面も否定してはならない。人々は競争や序列、勝ち負けが大好きで、強い関心をひきつけ、スポーツではそれが競われる。それに溺れすぎ、一体化し、距離をもつことができなくなると悲劇と悲惨さがおこる。序列はひとつのモノサシ、お遊びくらいの余裕がほしいところである。
序列の根底にあるものとして日本では年齢序列がいがいに強い。儒教の影響だといわれる。年上や目上のものを敬い、絶対だとする価値序列はとくに体育会系のクラブや軍隊的組織に根強い。けっこう深いところにしみこんでいるので、この年齢序列から外れることに恐れを抱く人は多いのかもしれない。だけど年上だから優れている、凌駕すると絶対にはいえないのであって、個人差のほうが大きいのだろう。この価値序列に疑問を抱くことはその序列体系の相対化に近づける。
序列の相対化は人が生きるうえでひじょうにたいせつな知恵、メソッドだと思う。序列意識に完全にのみこまれると、余裕がなくなり、それに必死になり、序列に命を賭すようになり、弊害と害悪をもたらす。
相対化というのはその至上とされる価値感に疑問の言葉をいくつもならべると、けっこうその根拠をゆるがせるものである。その序列を絶対なものとしていれば、思いもつかない発想である。序列に距離をおけることによって、わたしたちは無益で疲労度の高い、しなくてよい人生の回り道を防げるのかもしれない。
いちばん防ぎたいことは、恐怖によって序列競争を駆り立てられていることである。恐怖に駆り立てられているときには、あなたはただの「奴隷」になり、「盲従の民」となる。この社会の支配方法は、頭が空っぽであるから支配されるとよく批判されるのだが、そうではなくて、序列の恐怖に服従させられることだろうとわたしは思うのだが。



