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04 28
2014

右傾化再考

ウヨ系とサヨ系のよって立つ自尊心的基盤を暴く

 国家のほこりや栄光のために不名誉なことはいっさいなかった、存在しなかったとするウヨ系の歴史認識を見ていて、なぜそのような心理的な作用がはたらくのか考えたくなった。試論のようなもので、推論を重ねてみた。客観性をもつためにサヨ系も俎上にのせてみた。わたしはサヨ系のほうなんだけど、自己反省もえぐってみた。


 「国家はえらい」というウヨ系の人はほこりのほかの見たくないもの、そむけたいものを否定したいようだ。それを「ないもの」のすれば完全無欠の「ほこり」がえられると思っているようだ。

 「国家はひどい」というサヨ系、カウンターの人はひどいと言い立てることによって「自分は違うんだぞ、自分は偉いんだぞ」といいたいかのようだ。

 つまりウヨ系の人は国家の肯定のために不都合なものを見ないことによって自尊心を完全なものにし、サヨ系の人は国家をおとしめることによって自己の優越性・自尊心を確保する。

 国家にあらわれる自尊心はそのまま個人の自尊心の機能にあらわれるとしたら、人間の自尊心の育成の仕方ってこのふたつしかないのだろうか。肯定だけを見て否定のない自尊心、他者批判による自己優越の自尊心の二本柱である。

 ウヨ系の人たちの否定を見ないという傾向は先の戦争に突出してあらわれたように、負けるとわかっている太平洋戦争につっ走り、止める手段をもたなかったという現実逃避の認識にもあらわれ出たはずなのだが、ウヨ系の人はまた同じわだちをふもうとしている。

 サヨ系の人たちの欠点は批判や悪い面は鋭く認識できるのだが、建設や代替案に優れているわけではなくて、頭でっかちで計画に合わないものは追放やなきものにしてごまかし、なおかつ批判した当のものとさして変わらない権力の横暴や独占をにぎり、頭脳主義の政策も失敗するという社会主義国の歴史で露呈させた。

 現状を肯定する自尊心は現実を見ない、批判による自尊心はべつに代替策が優れているわけではなくて、似たような過ちを犯す。人の自尊心や優越感というものは、国家という大きなものでその欠点をさらに大きく写し出すようだ。

 ウヨ系の人たちはどうして現実無視の現状肯定という自尊心を必要とするのだろう。悪いことを見なければ完全無欠になれるといった心理より、どちらかというとほこりや自尊心という心理的安心を欲するがゆえに欠点に目をふさいでしまおうという心理的序列に思える。自尊心先にありきのための不都合なものを隠す。

 サヨ系の人たちはとにかく現状が不満である。叩きたくてたまらない。相手の地盤が低くなれば、自動的に自分の地盤が上がるという寸法であり、濡れ手に粟、棚からぼた餅的な自尊心を手に入れる。「貶めれば自分は違う」。

 ウヨ系の人たちは国家をタテに「おれのいうことを黙って聞け」。サヨ系の人たちは「おまえの権力をおれに寄こせ」。

 サヨ系の人たちは時間の先にある「ここにないもの」の理想を追いかけ、現状を否定する。自尊心は未来や想定の上にあり、現状否定はその「想定上の未来」や「ここではないところ」のためになされる。つまり現実否定の計画・想像上の場所がわたしの自尊心というわけである。

 ウヨ系の人の理想は現実にあるのだが、さまざまな否定もある事はふまえないわけにはゆかないので、それを「なきもの」にしたい。現実に目をふさぐことによって「地上の楽園」をつくりだす。否定されるものを否定することによって、理想と崇高の現実をつくりだす。

 いずれも自尊心というものが完璧には生み出せないために、どこかに「否定」をはさまなければならない「自尊心」というものの本質があらわれているのかもしれない。いっぽうは穴をつくって否定をふさぎ、いっぽうは未来に理想をつくって現状を否定する。どこに自尊心をおくかで、自尊心の防備の仕方が違っているというわけである。

 おたがいの自尊心の相性は悪い。よって立つ自尊心の立ち方が双方の根本を削る役割になるからだろうか。サヨ系はウヨ系の理想を否定し、ウヨ系はサヨ系の否定を否定したい。おたがいの自尊心を立ち上げるために、双方はけなしあわなければならない関係性にある。

 人間の自尊心というものを穴をつくってなかったことにして自尊心をたちあげるか、現状を否定して「ここではないどこか」に自尊心を想定するしか方法はないのだろうか。

 いずれも理想や完全無欠の世界がないために、なんとかつくろわなければならなかった自尊心のふたつのあり方である。現実を否定する自尊心、現実を見ないことにする自尊心。人間の自尊心というのはこの両極端のあり方でかたちづくられるのだろうか。

 ウヨ系の人たちは「大きなもの」の一体感にほこりと栄光を感じ、個人の犠牲や痛みは無視する。「大きなもの」が即自分であり、自身の滅却をたいしたことと考えておらず、大きなものの栄誉のためには個人の犠牲はおかまいなしである。

 サヨ系はケースによって違うが、基本的に個人に自我をおき、個人の心情やアイデンティティを大事にする。個人を押しつぶす「大きなもの」「強いもの」に対する反発と反逆を心情にもつ。権力の否定による「権力」がかれのお好みであり、もし権力をにぎったばあいは批判していた当のものとたいして変わりのないまちがいや腐敗をおこす。

 ウヨ系が大きなものの栄光とほこりのために否定面に目をふさぐように、サヨ系の人たちにとって現状や大きなものは否定され、個人の自我と自尊心がよりどころとなる。

 ウヨ系はげんざいある大きなものの自尊心のために個や否定面を隠蔽し、サヨ系は未来という時間軸の自尊心によって立つために現状や国家を否定する優越感を保持する。自尊心と優越感の源泉、よって立つ基盤が違うためにそれぞれの追究したい、見たい世界のあらわれかたが異なる。

 「大きなもの」と「未来」という自尊心の源泉はおたがいの自尊心を否定する、対峙する立場に向き合う。自尊心のために見たい世界が異なるためにおたがいを否定しあう。

 ウヨ系は現状の権力、大きなものを肯定したいがために現実の否定面を滅却する、サヨ系は現状の権力を否定することによって未来にたくした、もしくは想定上の優越した自尊心に自己をたくす。よってその重なり合う部分で衝突し、おたがいを否定しあう。

 目先の違いに目を向けるより、それによって自尊心や自己はどんな利益を得るのか、メリットがあるのか、個人の心理的心情の源泉を求めるほうが、不毛な対立より有益かもしれない。

 ナショナリズム、右翼の心理学、左翼、権力批判の心理学はどのくらいの研究の蓄積をもっているのだろう。


社会はなぜ左と右にわかれるのか――対立を超えるための道徳心理学社会主義の心理学経済倫理=あなたは、なに主義? (講談社選書メチエ)右翼と左翼 (幻冬舎新書)右翼と左翼はどうちがう? (河出文庫)


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はじめまして!


かなりの哲学・思想系の読書をされていますが、
余計な お世話かも しれませんが 分析哲学の本が
一冊も無いのですね。
これは もったいないことだと思います。
分析哲学は現代の英米で主流の哲学です。
もちろん、英米で盛んだと言っても だからと言って
日本人である 我々が読まなければ ならぬ、という
わけは無いのですが、せっかく哲学に関心を抱かれているのだから 分析哲学を読まないのは もったいないと思うのです。

余計な ことでしょうが何冊か わかりやすい分析哲学
の本を 御紹介 します。

戸田山和久「哲学入門」ちくま新書
出たばかり、わかりやすく面白い。
著者は 一見 軽薄そうな文体ですが、内容は高レベル
です。

まずは これが お勧め。

その次には同じく戸田山氏の「知識の哲学」

丹治信春「クワイン」講談社から出ている現代史思想の
冒険者たち の一冊です。同シリーズでは
レヴィナス、ハイデッガー デリダたちが並ぶ中で
分析系の哲学者の本は少ないのです。

余計な お世話でしたが、何冊か 御紹介させて
いただきました。

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