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![]() | 余は如何にしてナショナリストとなりし乎 福田 和也 光文社 2000-09 by G-Tools |
ナショナリストの心性がまったくわからないから、手をのばしてみた本。ちょっと挑発的な煽り本かもね。
まあわたしは学校教育のおかげか軍国主義をまったく嫌悪しているし、個人主義だし、共同幻想論におおくを学んだし、アナーキズムもいいんじゃないかと思うほど、国家はスルー。報道の歴史問題はふれたくもない。社会や心理からはものを考えたいが、国家や政治からはあまりものを考えたいとは思わない。考える場合は権力批判としての国家。
そういう人間にたいしてナショナリストからの批判はすこし傾聴に値するかもね。
「自国にたいして何のかかわりももたない客観的な場所に自分がいるかのような姿勢をとることで、自分が自国から超越した、きわめて尊い人間であるかのように振る舞うという「国際派エセ左翼」の病理」
このことは『ネット右翼の逆襲』という本の対談集のなかで、三橋貴明がわかりやすくいっている。
三橋「日本国民としての国家観の喪失なんですよ。完全に国家観を喪失していると思うんですね。自分が日本国民である、という意識がないわけです。
古谷「社会は~」という言い方しますね。
三橋「国がなければ社会は存在しないですから。…そこには国家とか国とか共同体の枠組みが飛んでしまっている。国家観を喪失した連中…」
たしかにわたしは「社会人」として生きようとして「日本国民」として生きようとしていない。こういう捉え方をしておれば、報道の歴史問題にかかわらなくてすむ。それでいいじゃないかと開きなることもできるし、反省の材料にすることもできる。
マイケル・サンデルが問うていたが、まえの世代のおこした問題は何世代後まで責任を負わなければならないのか、と問いたいくらいだ。「国民」をやめたままでいいのか。ふたたび福田からの引用。
「常に自分の成り立ちにたいして意識的であること、すなわち自分という存在がけして独立し自立した個人的な存在ではなく、長い歴史と広範な文脈の中で形成され、そして現在もそのなかで生かされていること…。その意識があってはじめて自分が何者であるかという正確な認識が得られ…。
自分を完全な個、まったく抽象的かつ無色な存在として認識し、そこから議論をする日本的な近代主義者たちの「市民主義」は、まったくナンセンスとしか云い様がありません」
この歴史の文脈から切りはなされた自己というのは、なにも戦争責任からきただけではなくて、「進歩主義史観」によるものなのだろうね。過去はおろかで、まちがっていて、現在は進歩しつづけており、過去は捨てなければならない。これはナショナリズムとか国家観といったものの一段上の歴史観が、われわれに歴史や伝統からの隔絶をもたらすのだろうね。
この本のなかでは似非ナショナリストたちも批判されていて、武士道には敵にたいする敬意があり、現代の愛国心にはこれが欠如しており、自己愛と自己肯定、ルサンチマンに満ちているだけと批判されている。
「そのすべてが自己愛の産物、あるいは卑小な自我を守る便利な小理屈にすぎないのに、それが堂々たる正義だと確信している」
げんざいの愛国心とかナショナリズムはこのような卑劣な隠れ蓑にすぎないのかもね。




