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03 29
2014

社会批評

ヤンキーもお笑いも知識人支配へのカウンターカルチャーだった

 ヤンキーとお笑いというふたつの興隆していることがらの根をたどれば、学校文化への反抗という共通のルーツをとどれるのではないのか。

 ヤンキーは学校の教師にたいする暴力的な反抗をくりひろげてきたし、お笑いも優等生をパロって笑うことによってガリ勉といわれる教師に服従する他生徒たちを揶揄してきた。共通の根は学校文化への対抗なのである。

 学校文化のなにに抵抗してきたかというと、学歴によって人々が序列・選別づけられ、社会の階層に位置づけられる権力を有する知識人支配にたいする憎悪や怨嗟の感情がもとになっているのではないか。

 たとえ知識という特権的な道具をもっているとしても、だれか他人に勝手に自分たちの価値を決められ、社会の一定の場所に配置される権力をひとり有することへの反感・不信感はぬぐいがたい。

 知識人支配にたいするカウンターカルチャー(対抗文化)がこの数十年の文化興隆の中でのおおきな趨勢だったのではないか。


ヤンキーという暴力的威嚇

 ヤンキーの発生の根をたどれば、学歴・成績によって侮辱されたり、見下される怒りや反抗がその態度をかたちづくっている。

 無力で弱いままにいては教師ばかりか、他生徒までに侮辱や見下される立場におかれたままでは、成績劣等生のかれには自分を守る術がない。

 その防衛策としてかれらは暴力的な威嚇を先におこなうことによって、成績劣等性への侮辱や見下しを先に封じてしまうのである。「あんなコワイ連中を侮辱したり、見下したりできない」というわけである。「ナメられたら終りだ」というかれらの基本姿勢はこの基本条件を語っていると思われる。

 ヤンキーや教師へ暴力をふるう不良学生といった者たちは成績劣等というレッテル貼りにたいして、暴力や威嚇を先におこなうことによって、教師からの見下し、無視といった制裁と闘うことができるし、他生徒たちからのそれも封じることができる。

 かれらを暴力的な威嚇に駆り立てたのは学校教師の成績劣等性という序列の最底辺に勝手に位置づけられる反感や怒りによってつくりあげられたのであり、かれらは学校文化、ひいては知識人支配に対するカウンターカルチャーをおこなっていたのである。

 かれらは学校文化という知識人権力への反抗をおこない、とうぜんに低学歴で社会に巣立つことになり、中央上昇志向という明治・昭和からつづいてきた学歴上昇コースから外れ、大企業やマスコミといった中央での華々しい成功から離れたところで地元でのいがいに保守的な家庭生活にはやくに収まることになる。

 学校文化にたいする反抗という敵がいなくなってしまうと、社会の階層のなかで拡散したかれらは目立った存在ではなくなり、社会での華々しい上層的成功といった道すじとべつのところで、社会インフラの底を助けるかたちで保守的な生活をおこなってゆくと思われる。

 かつて中卒の田中角栄がおこなったような列島改造計画は土建業のヤンキーたちをつなげることによって、「ヤンキー土建国家」としての再興をおこなったのではないのか。学歴上層部の儲けた金が政府にすいあげられ、学歴底辺たるヤンキー土建層にカネが還元されたのが、列島改造計画だったのではないか。

 かれらは地元での仲間や友だちとのつながりをなによりも大切にするということだが、学歴上昇による大企業文化・大都市のビジネスライクな関係と違う地元での目立たない保守的な価値観をかたちづくっていったと思われる。


お笑いという教養主義を葬ったもの

 学校文化、知識人支配への対抗という意味では、お笑いの興隆というムーブメントもおおきな役割をはたしたことも忘れてはならないと思う。

 70年代の絶大的な人気を誇ったドリフターズには牛乳瓶の底のようなメガネをかけた優等生がかならず出てきて、教師に従順たる学業優等生はバカにされ、見下されてきた。お笑いも学校文化へのカウンターカルチャーという側面も、お笑いの無害性からはあまり意識されない対抗文化が潜んでいたのである。

 タモリは80年代に「ネアカ/ネクラ」という二分法によって、「ネクラ」という暗い性格を笑うことの攻撃をおこなうことによって、それまでのシリアスでメランコリーな日本人的な性格を葬送に付した。日本人はよく「そんなことをしたら人に笑われる」といった規範によって自分の行動を律しているといわれる。お笑いは日本人のあり方を変えてきたのである。

 この後のお笑いムーブメントによって、シリアスで政治的だった日本人は、ポップで私生活利己主義の容認といった平和で小市民的な生活の肯定を得ることになる。「終りなき日常」をただお笑いの無限ループの場でたのしむ日常空間の世界に変貌させたのがお笑いのムーブメントだったのではないか。

 お笑いの席に教養であるとか、学歴であるといったそれまでの価値基準、社会的評価は無意味である。笑いは学歴社会の序列といった価値序列とべつの権力序列を日常の空間に打ちたてようとしたひとつの対抗文化と見ることができるのではないのか。

 日常の場を沈黙で気づまりな空間から、笑いによって親密で楽しい気分的情緒を集団で維持しようとする流れが、お笑いのムーブメントに求められてきたのではないか。「空気読め」や「友だち至上主義」、「職場での仲間主義」といったこんにちの趨勢は、お笑いによって補強・増強されつづけているのである。

 「日常をただお笑いによって楽しめ」という戒律はひとむかし前のシリアスで政治的な日本人を葬り去り、教養や学歴、知識といった価値観のスルーを可能にしてきた。お笑いも学歴社会にたいするカウンターカルチャーだったと見なすことができるのではないか。


知識人支配という権力転覆

 アルヴィン・トフラーもラビ・バトラも社会を支配する層の三分類として、「知」と「武」と「富」の権力を有するものたちの支配をあげている。社会にはそれぞれ知識人が支配する時代・社会があって、軍人が支配する時代・社会があることもあり、金持ちが権力を有する時代・社会があるということである。

 現代では富裕者が権力をもつのだが、人々の序列・選別を担当するのが知識人、学校権力である。この知識人支配に対するカウンターカルチャーがサブカルチャーのかたちでおおきく育ってきたのが戦後の社会といえるだろう。

 知識を有するものが勝手に自分の価値や序列を決めるのである。知識がある者にはそのような選別・配置をおこなう権利があると思うのは、現代の常識にどっぷりそまった人だけである。

 他人に勝手に自分を底辺づけられ、社会的価値の最下位に放り込まれて、うれしい人などいるだろうか。

 そのまま真に受けて自分はダメだという人生観を実直に生きようとする人ばかりではない。自分たちの価値を確認し、みとめさせたいと思うのが人間である。知識人権力にたいする異議申し立てはテレビのお笑い、地元でのヤンキーといったかたちでみゃくみゃくとおこなわれてきたのである。

 基本的に学歴序列は企業の集団内において、無用な闘争や競争の制止といった政治力学のために用いられてきた側面が大きいのではないかと思っている。

 もし地位・出世のモノサシが明確なものではなかったら、会社内でのポストをめぐる闘争や亀裂は壮絶なものとなるだろう。学歴という数字化されたものでは人々のしぶしぶの納得はひきだすことができる。ポストの配置という人事騒乱の回避に知識人による選別が利用されてきたのが、この学歴社会ではないのか。

 そのような選別・序列づける権力をもつ知識人にたいする反感・憎悪・怨恨がマグマのようにたまってきたのが、戦後の文化ムーブメントをかたちづくってきた。

 求められている問いというのは、知識人支配、権力の装置をどのようにしたら転覆できるかということではないだろうか。

 だれかが自分の価値を決めたり、社会的序列を決めてしまうことの怨嗟・憎悪の感は、社会の表面へとあふれ出しつづけているのである。

 学歴社会という形容では本質は捉えられない。知識人が権力をもち、人々を序列づける支配力をもつことに、人々は怒りと憎悪をたぎらせているのである。

 選別と序列づけるという手段をもつものの権力がいかに社会や人々にとっての意味が大きいか、ふたつのムーブメントの底流を見てみて気づかれることだ。叩くのはこの権力を有する場所に向かってだ。



▼関連本
非行のリアリティ―「普通」の男子の生きづらさヤンキー経済 消費の主役・新保守層の正体 (幻冬舎新書)ハマータウンの野郎ども (ちくま学芸文庫)脱学校の社会 (現代社会科学叢書)国家貴族 〔エリート教育と支配階級の再生産〕 1 (ブルデュー・ライブラリー)


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