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03 05
2014

社会批評

マラソン的序列というのは「道具」としての優劣のことではないのか ~「人生はマラソンじゃない」のCM

 リクルートポイントのCMが感動的だとか、不快だとかイラッときたとか賛否両論が巻き起こっている。

 最近TVでよく流れているリクルートの「すべての人生が、すばらしい。」というCMを見てもやっとした。

 わたしは「いいCMじゃんか」と思ったのだけどね。





 このCMで「人生はマラソンじゃない」といっている。マラソンというのは一律的な基準で勝敗や序列を決める競争であって、人生には多様な価値基準や人それぞれの価値基準があってもいいじゃないかと、一元的な価値序列からの脱走を歌っている。

 マラソンというのは時間的・空間的な限定のうえでの、一時的な勝敗と序列を決めるゲームである。あくまでも一定の時間、場所、同条件という「限定条件」が確保できたときにだけ決することのできる「超極小」的な優劣である。

 でも人生はいろいろな価値観があり、人々が同時に競う機会ばかりがあるのではなく、むしろ時間的・空間的な限定のうえでの勝敗や優劣を決めることのできる機会のほうがまれである。比較できる基準のないほうがむしろふつうだ。

 でもこの国の人々は世間的な勝敗や優劣の基準が厳然としてあると思いこんでいるようだね。そういうモノサシはたとえば金持ちや貧乏であったり、学歴であったり、大企業か零細企業かといった格で、人の価値や序列は測られると思っている。この国の人たちはそういう価値規準やモノサシが絶対で、そのモノサシで一喜一憂したり、人を見上げたり、見下したり、人間の価値を測っているようだ。

 このCMではそういう価値基準をマラソンの勝敗や序列にたとえて、人生の価値はそのモノサシで決まるという思い込みから脱出しようととなえている。


世間の序列とはわたしの「道具」としての優劣

 この価値基準というのはだれが決めたのか。だれの必要や都合を満たしているのか。なぜ他人や世間の決めた価値基準で自分の価値を測り、そのモノサシでわたしたちは一喜一憂したり、自分の価値を決めつけなければならないのか。どうして外側の他人ばかりが、わたしの価値や序列を決め、自分の基準やモノサシで決めたらいけないのか。

 すべて外側の他人や世間が決めていることであって、わたしは人の「用途」や「道具」でしかない存在なのか。他人の「有用」や「使用途」といった基準だけでわたしの価値や序列を決められているのでないか。わたしは他人が使用するためだけの「道具」だけなのか。世間のモノサシに迎合することは、自分が「道具」でしかないと宣言しているだけではないのか。

 もしわたしが自分の基準、幸福で判断するのなら、ぎゃくにこの世界を序列づけ、色づける目をもつべきではないのか。どうしてわたしは自分の基準でものごとを判断せず、他人にとっての「道具」の価値だけで自分の価値を測ろうとするのか。なぜ自分の幸福、価値を他人にすべて売り渡さなければならないのか。

 マラソンというのは他人にとっての「道具」としての勝敗や優劣を競うゲームのことではないのか。学歴や金持ち、貧乏、大企業や零細企業といった格はすべて他人からの「道具」としての優劣や序列のことでないのか。

 マラソン的価値基準で競争する人生ははたして「自分のための」人生なのか。自分の人生をとりもどすということは、他人からの道具としての優劣、序列のまなざしから解放されて、そのような目で自分を判断しないことである。


すべての価値を一元化する貨幣

 マラソンの基準で勝敗や序列が決せられるモノサシというのは、すべてのモノや価値が一元化される貨幣にひじょうに似ている。価値観や基準は無数に多様にあったとしても、お金はそれらを同一の価値規準に直して、同一の価値で測るモノサシになる。

 いわばマラソンで序列を測られる人生は金持ちか貧乏かの優劣や勝敗とひじょうに似ている。みんなそれぞれの方向、好きなこと、価値観でばらばらな方向に走ったとしても、さいごには金のあるなしで価値を測られることになる。あなたは金をおおくもつことができたから価値がある、貧乏だから社会的に価値がないと裁断されることになる。

 マラソンから脱走するというのは、すべての価値観を一元化してしまう貨幣からの脱走でもある。

 みんなそれぞれ思い通りの方向に走ったとしても、すべて金の一元的基準で判断されることになるのである。そういう金で価値を判断される基準から逃走して、はたしてわたしたちは自分の価値を測らないでいられるだろうか。

 マラソンからの逃走とは金の価値基準からの逃走も意味する。わたしたちはこの一元化する価値基準から逃れきることができるのだろうか。価値観の多様化、自分独自の価値観を打ち立ててみて、金で測るモノサシから絶対的に逃れ出る、超越できたという悟りを得ることができるだろうか。

 お金というのも社会にとっての「有用性」が測られることである。そういう社会に求められることだけが人生の目標であり、全価値であるといい切ることができるだろうか。自分の人生はそういう社会にとっての「有用」や「道具」としての価値だけで測っていいものだろうか。わたしは社会のためだけに生きて、自分のために生きてはいないのか。


レールの人生からの逃走

 マラソンからの逃走はいちばん表面的にはみんなが学校卒業後に就職するというレール的な人生からの逃走も示唆するのだろうね。とくにリクルートにとって画一的な、みんな同じような顔をして同じような就活の受け答えをするような均一性からの脱出をいちばん強く願うのだろうね。列に並んだ人生からの個性への脱出をこのCMは説くのだろうね。

 だけどレールから外れた人生、人と違った個性というのは、多くの人の声にはのぞまれておきながら、じっさいは列からはみ出すことの批判や蔑視、恐喝といった恐れがうずまいていて、個性個性といわれるとぎゃくにもっと判で押したような画一性が生み出されるのは類型化されているかのようだね。

 どちらかというと会社は軍隊的な絶対服従や規律厳守みたいな「体育会系」の学生を求めている。個性やつきぬけた創造性といったものを表面では求めておきながら、絶対服従の軍隊規律を守る学生を裏では欲している。この二枚舌はなんなのだろうね。

 個性や創造性は同じ顔、同じ受け答えではつまらないからという理由で、ウラでは序列に絶対服従の規律を求める。まるで表面は民主政治を標榜しておきながら、軍隊的な序列階層社会をかたちづくる社会を映し出しているかのよう。

 リクルートはかつて新しい自由な生き方としてフリーターという造語を生み出して、さっこんでは生涯賃金の低さ、不安定さ、身分格差、生涯独身といった「あわれ」の代名詞となるような非正規の人たちを街中に放り出した真犯人である。

 このCMもそのフリーター人生の希望と末路を写しとっているという批判も可能である。

 多様でそれぞれの価値観にしたがって生きるという人生は、底辺や不安定層、格下といった人生に一定の人々を放り込むための「自由という名の」地下牢屋なのかもしれないね。そういうふらふらと自由と多様性といった「迷妄」に迷い込まない人材を選別するために、自由という誘蛾灯は灯されるのかもね。


このCMの「適切」な受けとり方

 このCMはレールから外れる人生の賛歌とすすめと受けとるべきではないのだろうね。行動的にはレールの人生を歩むべきなんだろうね。軍隊的な絶対服従の階層社会を求めるというのが既成権力をもった者たちからはとうぜん望むのがしごく妥当と考えるべきなのだろうね。既成の権力をもった人たちが自分たちを放り出して、権力の座からみずからひきずりおろしてくれという権力層っていると思うか。

 マラソン的価値基準の相対化、客観化のすすめと捉えておきべきなのだろう。この価値基準を内面化してしまうと、自分すらも「道具」としての優劣や序列でしか判断しないようになり、その基準から外れたり、落ちこぼれたりすると、自分の価値、幸福などいっさいないと悲観、内攻してしまうからだ。

 自分の価値をだれか他人や世間にとっての「道具的な」価値基準でしか判断しない自分の心をつくってしまう。他人に植民地支配されたもどうぜんの他人の用途としての自分しか存在しなくなってしまう。

 マラソンのコースからはずれるばらばらな人生は、他人にとっての自分の有用性、用途といった道具的な価値規準からの逃亡、相対化を意味するとこのCMを捉えるべきなのだろう。そういう行動をとったさいにはかつてリクルート社に煽られた人たちの末路が待っていると押さえてべきなのだろう。

 わたしなんかこらえ性がないものだから、ほいほいとコース外の幻想の自由にスピンアウトしてしまうのだけどね。



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