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02 22
2014

書評 社会学

スポーツに懐疑や疑問をもてているか――『スポーツとは何か』 玉木 正之

4061494546スポ-ツとは何か (講談社現代新書)
玉木 正之
講談社 1999-08-20

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 スポーツ・ジャーナリズムって選手の活躍や勝利をつたえるだけで批判や懐疑をもたないものと思っていたけど、そうでもないのだね。

 この本を読んで「あたりまえ」すぎるスポーツに疑問や異化の目をなんらもたなかったことを思い知らされたね。スポーツを「あたりまえではないもの」、「奇妙なもの」、「おかしなもの」、「なぜこんなものがあるのか」といった疑問や懐疑をもていないとスポーツになんら問うものをもてないし、言葉にすらできないだろう。

 メディアにもたまに出ている著者、玉木正之はいっている。

「報道・批評という活動は、元来、アウトサイダーでなければできないことである。…メディアが当事者になると、当然のことながらアウトサイダーではなくなる。そうなると、みずから主催するイベントやみずから所有する団体の批判ができなくなる。それどころか、みずから関わるイベントや団体の単なる宣伝媒体に堕落してしまう。さらに、社会と社会に暮らすひとびとの幸福よりも、メディアの事業の利益を優先することになりかねない」



 日本のプロスポーツ・イベントを主催しているのはたいていマスメディア。日本のお寒い状況を思い知らされるね。宣伝機関を批判する目をもてないとだれがメディアの批評の役割をもてるのか。メディアと企業がむすびつくと露骨に企業利益が優先されるのだが、批判的な目はだれがおしえつたえることができるのか。日本の消費状況とメディアの関係にもいえることだね。

 スポーツ用語があいうえお順にならんでいる構成なのだが、それは価値の優劣をしめさない事典的な並列方法なので、価値の優劣をあらわす順列を採用したほうがいいと思うのだが、内容のほうは文化的・社会批評的、歴史的なしっかりしたスポーツ批評に届いていると思う。

 明治に欧米からスポーツが流入していらい、日本ではスポーツは文化とは見られなかったという。

「身体を鍛えるための(強い兵士をつくるための)「手段――すなわち「体育」と見なされつづけたのである」

「日本では、長い間体育(身体教育としてのスポーツ)とスポーツが混同されつづけ、スポーツは、それ自体を楽しむ(そして人生を豊かにする)ものではなく、身体を鍛えて、その身体を他の目的に活用するためのもの、と考えられつづけた」



 富国強兵、軍国教育としてのスポーツ身体、もしくは工場・企業労働に適した身体のためのスポーツと捉えつづけられているのだろうね。ほんらいスポーツは、非実用的なそれ自身のために追求される「遊び」のはずなのである。

「議会制度が発達する以前の社会では、支配者(権力)の交代は、主として「暴力(戦争)」によって行われた。議会制度化とは、政治がいわばゲーム化したことを意味している。…この時代から生じたスポーツは、このゲーム化する政治的歴史を、身体に移してモデル化したものだった。つまり近代スポーツとは<イギリス地主階級の「議会制度化」の対応物>といえるのだ」



 近代スポーツはそのほとんどをイギリスの発祥といわれるのだが、審判も主審があらゆる判定をくだし、アメリカのスポーツでは複数性の審判がもちいられるのだが、イギリスでは絶対王権的な思考システムがスポーツによってひろめられたともいえるね。

 いっぽうではスポーツは近代社会の労働者の差別、機械化による人間疎外からの抵抗として身体を動かす行為がもとめられたという見方もできる。ラッダイト運動や工場のための土地強制収容にたいする農民の暴動などと連動する、機械化(人工化)にたいする「身体(自然)」をもちいた抵抗と見ることもできる。

 工場、企業労働の不満やうっくつがスポーツを通して国家の管理の下で放出の方法をみいだされ、それが他国への憎しみや対立というガス抜きへと導かれるのだろうね。安保時代の岸信介とか政府官僚はこういう考え方をしていたようだね。韓国や中国での反日教育のガス抜きと同じ構造だね。スポーツは労働の怒りなのか。

「オリンピックのスローガンでもある「より速く、より高く、より強く」という近代スポーツを象徴する言葉は、そのまま産業革命(と、その後の植民地獲得競争)のスローガンにほかならない」



 スポーツを健全で健康的なあたりまえのものとしてみる目線は甘すぎることに気づく。国家、ナショナリズム、権力、政治といったあらゆる力の関係でできあがった社会の産物である。われわれはそれをあまりにも「あたりまえ」のものとして受け入れ、「奇妙なもの」、「おかしなもの」、「異常なもの」という疑惑・批評をいっさいもてないでいる。

 つまりはメディア・リテラシーをもてずにいる、自文化、自権力の構造にあまりにも無自覚でいる「眠り」の状態にあるといえる。権力のパブロフの犬から自由になることが知識の効用である。



▼巻末にあげられている参考文献その他
スポーツと帝国―近代スポーツと文化帝国主義文明としてのスポーツ―ヒーローの心理学 (1978年)ナチ・オリンピック (1976年)スポーツと現代アメリカ (1981年) (Books’80)

アメリカスポーツの文化史―現代スポーツの底流近代スポーツの社会史―ブルジョア・スポーツの社会的・歴史的基礎 (1980年)空から女が降ってくる―スポーツ文化の誕生 (Image Collection精神史発掘)スポーツとエロス (叢書ラウルス)

権力装置としてのスポーツ―帝国日本の国家戦略 (講談社選書メチエ)帝国日本とスポーツスポーツと文明化〈新装版〉 (叢書・ウニベルシタス)問題としてのスポーツ―サッカー・暴力・文明化 (りぶらりあ選書)


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