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09 10
2005

書評 社会学

『オレ様化する子どもたち』 諏訪 哲二


4121501713オレ様化する子どもたち
諏訪 哲二
中央公論新社 2005-03

by G-Tools

 かなり問題に感じる本であった。教師にとって、八十年代なかばに理解できない他者としての生徒があらわれたそうだ。そのような変貌を著者は農業社会から産業社会、消費社会への変化にみる。

 子どもたちはすでに消費主体として教師に「等価交換」をもとめるようになったという。中年の経験ある教師にたいして対等であろうとする、その自信と強さはいったいどこから来ているのであろうかと、著者は驚いている。

 教師は権威が否定され、いうならばコンビニの店員やどこかの営業社員のようにみなされるようになったのだろう。80年代に学校にいっていた私としてはこの気持ちがよくわかる。サービスを買ってもらっているお客なのにどうして偉そうにされなければならないのか、そういう反抗の論理をひねりだしたものである。

 この社会は経済の利害だけでものを考える社会になっている。商品交換の発想が人の関係にまでおきかえられる。公共性がたちあがるまえに、バラバラのむきだしの経済主体としての「個」が登場してきたのである。

 80年代の校内暴力は成績の悪い生徒たちの扱いに対する教師へのお返しであったというのはなるほどだと思った。ただし、そのころの中学生はなにごとかをいったのだが、それをうまく言葉にできなかった。教師の権威が消失し、等価交換がもとめられる時代のはじまりを告げていたのである。

 そして新しい子どもたちは全能感をもったまま、社会化されず、「オレ様」化されている。自分は自分にとって「特別」であるが、他人にとってはそうでないということを理解しない。主観を叩かれた経験がない。外からの評価を異常なほどに恐れている。

 著者は学校という現場から生徒のこのような変化を報告するのだが、私も生徒側としての気もちがよくわかったし、その変化の意味にかなり問題を感じた。消費社会においてつくられたであろう全能感や評価を恐れる気もちを私もかなりもっている。これは子どもの変化というより社会の変化である。私も職業への侮蔑感に現実に着地できない全能感の不満を感じてきたものである。

 生徒に等価交換がもとめられる学校は共同体のルールを教え込むことができるのだろうか。あるいは徹底的に顧客の主体性にまかせたら小学校はどうなるのだろう。経済利害だけの世の中で共同体というものはどうなってゆくのだろう。いろいろな問題を感じた著作である。ただ家庭でのオレ様化が問題になっていないなあ。


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うえしん

Author:うえしん
世の中を分析し、知る楽しみを追究しています。興味あるものは人文書全般。神秘思想、仏教、労働論、社会学、現代思想、経済学、心理学、歴史学。。 そのときの興味にしたがって考えています。

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