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01 19
2014

書評 性・恋愛・結婚

男らしくあることもひとつの奴隷状態――『日本の男はどこから来て、どこへ行くのか』 村瀬幸浩ほか編

4434011626日本の男はどこから来て、どこへ行くのか
―男性セクシュアリティ形成(共同研究) (男性セクシュアリティ形成〈共同研究〉)

村瀬幸浩ほか編
十月舎 2001-07

by G-Tools


 どうして男について問わなければならないのか疑問に思う方もおられると思う。端的にいえば、「~ねばならない」「~しなければならない」といった自分ではない強制や強迫のなかにおかれるからである。

 男であることもひとつの社会の「奴隷状態」なのである。またそういう強い男であることを必要とする「もの」はだれなのかといえば、「国家権力」であったり、「支配者」の都合であったりする。隷従状態であることは人間の自由も成長も保証しない。

 男は「女性に負けられない」「男はみんなの先頭に立たなければならない」「リーダーシップをとれないような男は男ではない」「男は一家の大黒柱で、家族を食わせていかなければならない」といった抑圧と強制の中で生きることになる。それは本能というより、社会的な刷り込みなのである。

 刷り込まれた男らしさの内容は、①強者志向 ②他者支配志向 ③感情抑圧志向にまとめられるという。

 この本はそういった男らしさの形成論を研究会でまとめたものでいく人かの執筆者によって書かれている。大学研究者のほかに高校教諭も加わっていることが特徴かな。

 第4章の関口久志「体育・スポーツにみる「男らしさ」培養の歴史」がいままで読みたかった内容にいちばんぴったりきた。スポーツは権力者や国家権力にどう奉仕してきたかのような内容である。

「近代スポーツは、その国家から要求される男性性をどのように身に着けさせるかという目的をもってなされた面が多くある」

 近代スポーツは男性優位が多いのだが、英国からはじまった近代スポーツは男性が優位になる種目が選ばれているということである。

 つづく英国スポーツ、米国スポーツ、日本スポーツの特徴がひじょうに興味深い。

 英国スポーツにはレフェリーの抗議がほとんどないということだが、それは英国ブルジョワジーによる労働者と植民地支配のルール遵守に役立ったということである。

 米国スポーツは勝敗に徹底的にこだわり、成功か失敗しかないアメリカの絶対的目標をあらわしている。メンバーチェンジも大胆にとりいれられているのだが、大量生産の代替交代性をあらわしているのであり、また敗者復活戦を可能とするアメリカの風土もしめしている。

 日本のスポーツは精神性の重視、勝敗のあいまいさ、非客観性、縦型関係の重視にあるという。体制への従順性、不合理性の養成がそこでおこなわれるということである。

 明治の初代文部大臣、森有札はいっている。「兵式体操を施行するのは兵士を育てるためでは必ずしもなく、組織だった行動になじむ身体と心性を育むためである」

 野球が日本でいちばん人気だった理由も興味深い。それは監督システムにあったのではないかという。サッカーやラグビーでは選手任せであるが、野球は一挙手一投足まで指示できる。これは父、教師、国家のいうことはなんでも聞くという縦型管理システムを集団に根づかせ、国民に見せるのに好都合だったということである。

 権力装置としてのスポーツという面からみるとしょうしょう恐ろしいね。スポーツは権力の型やありかたに服従・奉仕する訓育装置になっているわけだからね。

 日本では「負ける恐怖=男でなくなる恐怖」からスポーツの勝利がもとめられ、ために「苦しみに耐える」「罰から逃れる」といった、楽しみや喜びではない負の行動動機が多くなる。

 第6章、小玉亮子「父親論の現在」では「父親の不在」や「権威の喪失」といったことが世論でいわれるようになって久しいのだが、意外にアンケート調査ではそういう実態がまったくないことがしめされている。どうも世論はそういうことに目をつぶって、父親の権威失墜といった印象操作をしたいかのようである。なにがあるのだろうか?

 ほかの論文では近代男性の誕生、近代日本の性教育、戦争における男性セクシュアリティ、マスメディアの男性像、暴力と男性支配といった内容があつかわれている。

 われわれは国家権力や権力者、社会の都合のよい行動規範としての男性性をうえこまれて、社会の機械・反復装置となるのだろうね。

 そういった社会の反射行動としてのみずからの中の規範をはずしてゆくことが人間の成長や自由であるのだと思う。この内面規範を言語化しないことにはわれわれは社会・権力のパヴロフの犬からは自由になれないのだろうね。

 仏教は世俗からの脱俗をメソッドとしてもっているはずなのだが、宗教への帰順装置としてはたらいているのも事実だね。

「野球やバスケットボールで勝ったとしても、それは限られた空間の定められたルールの下で勝利したに過ぎない。その勝利で全人格が相手より優れて、その相手を支配できることにはならない。この当然のことが、スポーツを全日常としたスポーツエリートにはわからないことが多いのである。勉学エリートの多くも同様である。それらエリート男性の多くは、女性を支配するための存在としてみて、自分たちと異質な生き方、すなわち競争的でない男性には警戒と侮蔑の思いを持つことになる」 関口久志




▼スポーツの国家権力論に食指が。
スポ-ツとは何か (講談社現代新書)スポーツを考える―身体・資本・ナショナリズム (ちくま新書)メディアスポーツ解体―“見えない権力”をあぶり出す (NHKブックス)スポーツの魅惑とメディアの誘惑―身体/国家のカルチュラル・スタディーズ権力装置としてのスポーツ―帝国日本の国家戦略 (講談社選書メチエ)

野球と戦争 (中公新書)スポーツ・ヒーローと性犯罪身体の近代化ースポーツ史からみた国家・メディア・身体 (スポーツ学選書)スポーツと国家―スポーツ社会学確立のために


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